昨日の河北新報にブラジル・サンパウロで戦前、南米貿易でも先駆者的役割を果たした藤崎商会の伝票が見つかったことが報じられていた。デパートの藤崎が、南米貿易の先駆者だったということも驚きだったが、記事を読みながら10年以上前のあることを思い出してしまった。 それはブラジル移民としてサンパウロに渡り、久しぶりに日本に帰ってきたブラジルのおじさんのことである。ブラジルのおじさんとは、私の家内のおじさんで昭和30年ごろにサンパウロに移民として渡った方である。日本には10日間ほど故郷の名取に滞在した。毎晩、宴会が催され移民としての苦労話や楽しい話に、みんなは泣き笑いした。向こうでは、農業機械の修理工として働いたがとてつもない苦労の連続だったようだ。お金での苦労もそうだが、日本では当たり前の「安全保障」が無いのである。誰でも銃を持ち暴力やそれを背景としての窃盗等が白昼から普通に行われるそうです。サンパウロの夜は危険で一人では歩けないほどです。昼間でもサンパウロを歩くときは必ず財布を別にして小分けにするそうです。強盗が襲ったらすぐに与える財布と、本当の財布に。ブラジルは治安が悪いだけでなく、水の便、食料、交通、教育、福祉などすべてが日本とは比べられないほどひどい状況だったようです。ただそんな中でブラジル人に日本人は尊敬されていたようです。勤勉で正直で働き者が多いからでしょうか。その一人がおじさんだったと思うのです。その後、おじさんはブラジル人女性と結婚し3人の子供に恵まれ苦労しながらも、子供たちを医学部や歯学部に入れたそうです。日本以上に大学に入るのが難しく、ましてや医学部などはとても難しいんだそうです。おじさんはがんばって子供たちを医者にしたのです。すごいです。 おじさんは日本にくるのは今回が最後だといってました。仮に日本の肉親の誰が死んでももう来ないのだといってました。お金が大変なのと、今はサンパウロで自転車修理業を営んでいるため休むことができないそうです。日本での10日間は毎日宴会。そしてさまざまのところを見て周り、昔の友達とも会い、名残惜しそうに別れたそうです。そして10日間はあっという間に過ぎ去り、みんなと別れる日が来ました。もう二度と日本に来ることはなく、ブラジルの土になると言っているおじさんを見て泣きじゃくるおばさんもいました。ブラジルのおじさんは私の娘(当時小学校6年生)に次のような言葉をかけてきました。「日本ぐらい素晴らしい国は無いんだよ。日本を誇りに思って生きなさいよ。」 日本とブラジル。二つの祖国を持つことになり、しかもブラジルで苦労に苦労を重ねたことにより日本の素晴らしさを発見した、おじさんならではの深い言葉に感じ入ったのでした。
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