| 摩文仁の丘 |
今日は、以前沖縄に行ったときの話しを紹介することにしよう。沖縄はこれまでにも何度となく行っておリ大概の重要スポットは見ていたつもりでいたが、最も大事な場所を見忘れていた。 それが「摩文仁(まぶに)の丘」である。
平和の礎と一体となった大きな公園の一角に小高い山がある。この公園内を走る周遊バスに乗り目的の摩文仁の丘の停留所に着いた。ここも大勢の観光客がいるものだと思ったらそうでもなく、停留所の前に一軒の店があり、慰霊碑に捧げる造花が目に付いた。我々がバスから下りようとすると、おばさんグループの一人が、私に「ここには何があるんですか?」と聞くので若干の解説をしたが、「はあ?!」といったきり興味が無いようで、結局バスからは降りてこなかった。 ここから摩文仁の丘の頂上を目指し階段をてくてくと登った。登っている途中は右側も左側もずうーと慰霊碑が立ち並んでいた。それも県別に慰霊碑があり、おびただしい戦死者の数に圧倒された。上に上れば多少は観光客もいるだろうと予想していたが、誰一人いなく、結局我々だけであった。やっと頂上付近に着くと沖縄第32軍の牛島満司令長官や長勇中将などが自刃した地下壕の上のあたりにある慰霊碑「黎明之塔」があった。
牛島司令長官たちは圧倒的な米軍の攻撃に対し、砲弾・糧食・薬すべてが不足している中で、期待していた連合艦隊の援軍もなく、孤立無援の中で必死の防戦をしいられていた。県民に対してはなんとか戦闘に巻き込まれないようにしようとしたがうまくはいかなかった。米軍に徐々に追い詰められていき、ついにはここ摩文仁の丘が最期の地となっていた。沖縄戦敗戦の責任を取って牛島司令長官や長(ちょう)勇中将など幹部が摩文仁の丘の地下壕へ入って行き全員自刃。 時世の句は「矢弾つき 天地染めて散るとても 魂還り魂還り 皇国護らん」 牛島長官が持っていた日本刀は宮城県の誇りでもある松山町の法華三郎作の銘刀「大和伝」である。わざわざ松山町を訪れて「大和伝」を二振り購入してもいる。 自刃の報を聞いた法華三郎氏(現法華三郎信房氏の父親)は、「やっぱり、うちの刀か?」と言って絶句したと言う。
摩文仁の丘は絶壁になっており、周りの海が美しくパノラマで見え、その間は緑一色のジャングルとなっている。ここで牛島長官たちが地下壕を鮮血で染め、最期のときを迎えたのは、昭和20年の今日、6月23日のことである。しかし我々が見た摩文仁の丘は、青い海と緑のジャングルがコントラストを描く美しい場所であった。そこでは陽光が輝き、一陣のさわやかな風が吹いていた。
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