| 八田ダム |
測量会社にいたころ、そこの設計課長に「八田ダム」のことを教えてもらったことがある。台湾でほとんど全生涯をかけてダム建設に従事した八田與一が、さまざまな困難を乗り越えて完成したダムである。今日はこの偉大な土木技師・八田與一のことを紹介することにしよう。
日本が統治するまでの台湾は、衛生が劣悪でアヘンがはびこり、産業が何もなく、洪水や旱魃の被害がひどく、まさしくどうしようもない「化外の地」であった。 しかし新渡戸稲造先生や後藤新平など多くの日本人の努力が実り素晴らしい島へと変身していった。その一つが八田ダムである。八田ダムは黒部第4ダムより少し小さいぐらいの当時としては東洋一の巨大ダムである。このダムの完成により、広大な農地が出現し米やサトウキビが取れるようになった。このダムを設計したのが八田與一である。八田は10年以上の歳月をこのダムに捧げ台湾人から慕われた。しかもただ大きなダムを作っただけではない。台湾は巨大地震が時々来ることを見越し、設計も地震に強いセミハイドロリックフィル工法を採用した。また台湾人を心から愛しており、労働者のためにと、病院・学校・大浴場を整備した。さらに娯楽施設・弓道場・テニスコートまで完備させた。(日本でもまだ無い施設なのにである。) 芝居一座を呼び寄せ、映画を上映し、お祭りも企画し労働者・家族みんなが楽しめるようにした。 こうして八田は台湾人から「嘉南大洲の父」と慕われ、そして工事も順調に進んだ。 しかし、発破作業では多くの尊い人命も奪われた。八田はいつもの作業服姿で遺族のお見舞いに奔走した。台湾式の弔意を示し「申し訳ない。工事を続行するかどうか検討する。」と謝ると、なんと遺族から、「八田さんは俺たちの親父のようなものだ。俺たちのために台湾のためにぜひダムを完成させてくれ。」と逆に激励されたという。
こうしてダムは完成した。世界中から評価され、土木学会でも正式名称として「八田ダム」と命名された。完成後、八田與一は次の赴任地であるフィリピンに船で向かったがその船がアメリカ軍に攻撃され撃沈した。八田與一56歳であった。その後、八田の奥様もあとを追うように八田が全精力を傾けた「八田ダム」の放水口に身投げをした。 現在に至っても、八田の命日には、台湾の農民が多数、ダムのほとりにある八田與一の銅像前に集まり慰霊をしてくれている。 今、日本を訪問している台湾の李登輝氏は「八田與一こそ、世界に誇れる日本精神の体現者でしょう。」と絶賛する。今でも、ダムのほとりに立つ八田の銅像の前を通る台湾人は必ず八田に手を合わせるのだという。
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