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良ちんの『日常を旅するブログ』
土地家屋調査士 斎藤良一が、旅や映画、読書等日常をつれづれなるままに書き綴るブログ
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政宗の偉業
いま仙台で話題になっている人物がいる。「仙台平野の歴史津波」という本を16年前に書き、仙台平野には数百年に一度レベルで巨大津波が来ることを予想し警鐘を鳴らしていた方なのだ。
この著者は飯沼勇義氏と言い、なんと、この本を書き上げた後に、当時の宮城県の浅野知事や藤井仙台市長に陳情書を渡し、津波が来たらひとたまりもない蒲生や荒浜などに防潮堤やその他の津波対策をしてくれるように進言していたという。
しかし無視され今日の事態に至っている。

この話を昨日私の友人と話していたところ、その友人が驚くべき話をし始めた。
彼のお父さんだったか祖父だったか忘れたけど、戦後、大東亜戦争から帰ってきてどういう関係かわかりませんが、伊達の殿様の直系にあたる伯爵に「戦争から帰ってきました。」という報告をするためにあいさつに行ったという。当時、伯爵は一本杉のお屋敷(現在ウルスラ学園のところ)に住んでいてそこに言って挨拶をし、様々な話をし、そして帰ろうとしたとき、伯爵は不思議なことを言われたという。

「仙台平野には、まれに巨大津波が来るから気をつけなさい。」

友人の父(?祖父かも)はあまりに突拍子もないことを言われたので唖然として立ち去ったということです。
ということで今日は、伊達政宗と巨大津波に関するお話をすることにしよう。

仙台平野を襲った巨大津波として有名なものは、平安時代の貞観津波(869年)がありますが、もう一つあるのです。
それが1611年の慶長津波です。
伊達政宗が仙台に入ってきてちょうど城が完成し、街づくりをしていた頃です。
前にブログで書いたように、津波は現在のバイパスを超え、広瀬川と名取川にはさまれている長町まで押し寄せてきました。
まさしく壊滅状態であり、とりわけ東側に伸びる仙台平野の農地は惨憺たるありさまでした。
六郷、七郷、岡田、藤田、上飯田、三本塚、荒井、長喜城、二木、岩切・・・・・
仙台藩の一番の資金源になったはずの東部の農地は全滅したのです。

東北の王者として意気揚々と仙台に乗り込んできた伊達政宗の気持ちはいかほどだったでしょうか。
伊達政宗といえば危ない戦争もありましたがことごとく勝ち続けた軍事の天才です。
相馬氏を滅ぼし、二本松を陥落させ、芦名氏撃滅、さらには大崎氏を殲滅し、葛西氏を滅ぼしました。
さらにさらに朝鮮にも部隊を進め朝鮮戦役をも戦い抜いています
伊達政宗は超強力な軍事力を保持して領地を拡大してきた戦国武将です。
しかしその軍事力の資金源と言えば一番は米です。その農地が全滅したのです。
しかもこの津波の後さらに仙台は不幸のどん底にやられるのです。
この後、蔵王が噴火し二年続きます。さらにこの噴火に影響されてでしょうか、二年連続で大冷害に襲われるのです。
普通だったら仙台を捨てて別のところに遷都するほどの惨状だったのです。

ところがところが、ここでへこまないのが、伊達政宗の真骨頂なのです。
なんとここからあらためて仙台の復興をなしとげ、見事な領国経営をするのです。
すなわち津波には敗れたけれども、これを奇貨として、すべてをリセットして仙台を新たに作り始めたのです。
さしずめ「津波へのリベンジ」あるいは「対津波戦争」を開始したとでも言いましょうか。

海水に浸った「野谷地」を土壌改良し米作りに最適な土壌にします。あらゆる武将を総動員して土木事業の指揮をさせます。用水路、排水路、洪水対策のための堰を設けさらには護岸工事、さして、防潮林、防風林を設けました。
さらに毛利藩に仕えていた優秀な土木技師・測量士である川村孫兵衛を連れてきてあらゆる治水事業をやりぬいたのです。
特に大がかりだったのは石巻港の整備、北上川の河川改修事業、そして七北田川の流路の変更とそれに伴う新田開発です。
ここで活躍したのが和田織部という武将です。和田織部はこの偉業によってこの辺に膨大な土地を与えらえれこの辺は今でも和田新田という地名として残っています。

和田新田だけでなく、仙台にはあちこちに「新田」という地名が見受けられますが、これはすべて津波にいったんは敗れた伊達政宗がもう一度農地を復活させ素晴らしい街づくりの象徴のような名前なのです。

さらに梅雨時の梅雨前線の停滞などでの土石流対策として、植林や今でいう砂防ダムのようなものをたくさん作りました。
すなわち産業のかなめでもある「治山・治水」に全力を挙げたのです。
治山・治水、農業の復活だけでなく伊達政宗は産業の奨励に全力を挙げました。
例えば、鉱山開発、養蚕、たばこの生産、和紙作り、お茶の生産、製塩、林業の発展、漆器生産、砂鉄生産
畜産業の発展、鉄砲の生産、・・・ありとあらゆる産業奨励をしたのです。
さらには七夕というお祭りを初めて市が立つようにして街の活性化に努めたり、堤焼のような窯業も発展させました。
すなわちどうしても天候に左右される農業だけでなく、町人、職人も多数活躍する生産ラインをたくさん設けたのです。

こうしてできたのがその後の仙台だったのです。
なんとなく、仙台というのは伊達政宗が1601年に入り、城を作り街を作り農地の開墾をして、順調に大きくなったとばかり思っていたのですが、全然違うのです。
すべては1611年の慶長津波によって壊滅的打撃を受けてからの復興こそがその後の仙台を形作っていったのです。

軍事的天才である伊達政宗は数々の戦争をして勝利して仙台に入りました。
しかし、最も苛烈な戦争は、巨大津波後の復興を成し遂げたまさしく「対津波戦争」でした。この戦争を勝ち抜くことができたがため素晴らしい街・仙台を形成できたのです。

どうか仙台のみなさん、このように先人たちは「対津波戦争」を勝ち抜き復興を成し遂げたのです。この偉大な歴史を勉強し、そして勇気を持つべきと思います。

ただし、公共事業費はズタズタに削り、自衛隊の予算も削りに削り、災害対策費はほぼゼロにし、しかしなぜか世界第二位の経済大国になったシナ様には相変わらず年2000億円もの大金をプレゼントし続ける現政権がいる以上復興はまだ先かもね。
さらには国民がガソリンがなくてみんな困っていた時、福島県の田村市を選挙区にしていた民主党の玄葉大臣は震災三日後にその権力をたてに、タンクローリー50台を優先的に田村市のガソリンスタンドに供給するよう命令していたことが判明。
がっくりきた。自分の選挙のことしか頭にないんだね。

こういう卑怯な奴らを排除して、津波にもへこまなかった伊達政宗に学び、対津波戦争を勝ちぬくぞという住民一体、国民一体の運動というか作戦が必要なのだが。そのためにもこの戦争を戦うべきトップの総理大臣があれではね。

私の本業のホームページ 不動産法コンサル・サロン http://www.estate-consultant.jp
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この記事に対するコメント

今日、テレビで伊達政宗を紹介していたので、検索してたどり着きました。歴史に学ぶことは多いですが、これもまた然り。国民は必死にがんばっているけど、上に立つ人たちは大丈夫か~と私も思います。
【2011/12/26 14:26】 URL | dotako #- [ 編集]


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