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良ちんの『日常を旅するブログ』
土地家屋調査士 斎藤良一が、旅や映画、読書等日常をつれづれなるままに書き綴るブログ
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湊浜にて
前回は「四谷用水研究会の見学会」の話を書きましたが、蒲生が港であった話まで書きました。
今日はこの見学会の後編、七ヶ浜編をお送りします。

蒲生を見学した後行った所が、多賀城緩衝緑地公園でした。ここに車を止めてすぐ南側を通る砂押川を見ました。
このあたりの水路は複雑に位置しています。
南側の砂押川は仙台新港に注ぎ、緑地公園東側には南北に貞山運河が走り、これも仙台新港に注いでいます。
さらには砂押川と貞山運河がまた別な水路でつながっています。
ここではこれら水路群の歴史的な経緯を新関会長から教えていただきました。

そして次に行ったのが弁天沼(深川沼)周辺でした。

湊浜現在縮小 この図面は現在の見取り図

弁天沼の前に行ったのが、薬師堂、そして冷鉱泉の洞穴
七ヶ浜・ これが冷鉱泉といわれる洞窟

そして次に行ったのが、弁天沼の中の島の上にある弁天様
七ヶ浜6 弁天沼の中の島の上にある弁天様に向かう階段

かつてはこの写真の位置は弁天沼の中にあった島だったのですが、現在はこの島は陸地とつながっているのでだれでも行けます。
この上にある弁天様はかなり御利益があるらしいと聞きます。何にって、商売に、勝利に、女性は美がさらに増すように。
そういったもろもろの願いがかなうそうです。

しかし、この弁天沼(深川沼)はかつて川の一部だったのです。砂押川の一部です。それが流れが変わり残ったのがこの沼なのです。下図をみてください。
湊浜古代編縮小 この図は古代の砂押川の見取り図です。

なんと、古代においては、七北田川が砂押川と合流していたのです。しかも合流して大河川となってこの湊浜まで流れていたのです
七北田川は江戸時代の初期間では岩切駅の南側あたりから、そのまま東流し、砂押川に合流していました。
しかし江戸時代初期に大掛かりな河川付け替え事業が行われ、七北田川は分断され、現在のように南下しそして蒲生の海岸に流れるようになったのです。

古代、七北田川と合流していた砂押川は大河川でした。そしてお城のあった多賀城の南側をとおり、この弁天沼あたりをとおり湊浜に注いでいました。
このあたりが物流の拠点であり、船がたくさん逗留していたと考えられています。

新関会長から驚くべきことを教えていただきました。日本書紀に出てくる「ヤマトタケル=日本武尊」の東征で「竹の水門」といわれる海岸に大軍が到着した話がありますが、この竹の水門の位置は、ここ湊浜であるという説が濃厚だというのです。
もちろんまだ確定したわけではないのですが、確かに古代の巨大都市・多賀城の物流拠点だった湊浜という説も充分成り立つだろう。

ヤマトタケルの大軍は湊浜に上陸しこの弁天沼付近に逗留し、ここからは陸路を行ったというのです。
さきほどの冷鉱泉は冷たい温泉が湧き出るらしいのですが、伝説では、ヤマトタケル軍の兵士たちがこの冷鉱泉で傷を癒したというのです。
ふうむ、話が出来すぎですか?
しかし温泉と軍隊というのはつき物のようですね。後三年の役における源軍が栗駒で合流する前日、鳴子の温泉で泊まり傷を癒した話は有名です。

それと古代において海から大軍をもって攻める場合、必ず大きな川に入り込み波静かな場所に逗留しそこを拠点に攻めるというのは常道です。
そういう意味ではかつて、この弁天沼の当たりは大河川時代の砂押川の一部であったわけで、ありうる話です。

いずれにしても今はこのあたりには川はなく、小さな弁天沼が、往時、砂押川の一部だったことを証明しているだけです。

それにしても東征に西征に全国をまたに駆けて戦をしたヤマトタケル軍が宮城県七ヶ浜の湊浜に大軍を擁してやってきたのだとするると、すごすぎますね。

蒲生・七ヶ浜1 美しい湊浜

蒲生・七ヶ浜2 

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【2010/02/21 22:06】 | 日記 | Author:斎藤良一 E-mail:info@estate-consultant.jp


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