FC2ブログ
良ちんの『日常を旅するブログ』
土地家屋調査士 斎藤良一が、旅や映画、読書等日常をつれづれなるままに書き綴るブログ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

江戸時代の物流拠点?榴ヶ岡、苦竹、鶴巻、蒲生の米蔵?
米蔵 宮城野区にある宮城県公文書館(旧宮城県図書館)付近

私は、「四谷用水研究会」という団体に所属しています。私の測量会社時代の社長から誘われて入ったのですがこれまであまり参加したことがありません。
四谷用水研究会とは、江戸時代初期に作られた四谷用水を研究するだけでなく、宮城県内に作られた歴史的な水路を見学したり、その保存を訴えたり、会員同士で水路の研究発表をしたりするという団体です。すなわち水路というカテゴリーから歴史を発見するというものです。
先日行われた見学会がとても楽しかったので、今日はこのことを書いていくことにしよう。

新関会長からまず説明があったのが、上の写真の場所です。
ここは現在、宮城県公文書館ですが、以前は宮城県図書館でした。
この辺一帯が江戸時代は、なんと、大きな米蔵が林立していたらしいのです。仙台には二つの米蔵の拠点があったそうで、ここが北の拠点です。
もう一つが若林区の舟町にありました。そういえば舟町の七郷堀と4号線の交差するところにある橋を「蔵前橋」といいますが、まさしく米蔵が林立していたことをこの名前が表しているのです。

江戸時代はまさしく米が生命線でした。米どころの北上川沿いや、江合川沿い、鳴瀬川沿いの各地方から米が集められ、最終の物流基地がこの写真のあたりだったのです。
ここには米を厳しく管理する武士が常駐し警備していました。ここから城に運び、あるいは各武士階級に配分し、そこからさらに商人階級、その他多くの人民に配給されていたのでしょう。

七ヶ浜7 陸上自衛隊苦竹駐屯地

次に見学したのが、苦竹でした。
陸上自衛隊苦竹駐屯地の北側に45号線がありますが、この45号線に沿って江戸時代は運河が走っていたらしいのです。
この運河は鶴巻の七北田川のところから、梅田川と平行に西進し、その運河の最終地点がここ苦竹だということです。
なぜ梅田川を使って船で運ばずに、あえて平行に運河を掘ったかというと、梅田川の水量が乏しいためと推測されています。

自衛隊前 江戸時代の苦竹、このように自衛隊前辺りまで運河があった。

この絵は、45号線の北側にあるレストランさんもんに以前掲げられていたかなり大きな絵です。
この絵にあるように、江戸時代の苦竹はまさしく運河の最終地点、物流基地だったのです。
例えば石巻から貞山運河をとおり、蒲生まで来ます。蒲生から今度は七北田川を上り、鶴巻まで来ます。
鶴巻からこの「御舟曳堀」と言われる運河で最終地点・苦竹まで運んだのです。
この苦竹にはやはり絵のように米蔵がたくさんありました。
米以外には塩蔵です。それ以外には木材、鉄等が主なものでした。

本当は運河の最終地点は、最初に紹介した公文書館前あたりまで延ばす計画でした。しかし45号線を苦竹から西に走ると案外勾配がきついことがわかりますよね。
江戸時代も詳細な水準測量が行われました。その結果、苦竹から西には勾配が取れないことがわかり、断念したのです。
それで苦竹が最終地点になったのです。
ここ苦竹からは陸送しました。そして先ほどの榴ヶ岡のところの米蔵まで運んだのです。

鶴巻・七ヶ浜 七北田川と梅田川の合流地点

次に見学したのは梅田川の各地点、そして福田町、その後に訪れたのが、上の写真の「七北田川と梅田川の合流地点」です。
ここは鶴巻という地名であり、ここも江戸時代は物流拠点として、米蔵が林立していました。
米蔵があった場所はこの川の南側の場所です。
この鶴巻にいったん荷揚げされた米や塩、鉄、木材などは、今度は先ほどの運河「御舟曳堀」をつたって苦竹まで運ばれたのです。
ここ鶴巻も極めて重要な場所だったようです。

その後、蒲生を見学しました。蒲生は江戸時代、かなり活況を呈した町だったようです。

町蒲生1 蒲生の貞山運河跡

ここは蒲生の貞山運河跡です。ここに幅約20m位の運河が走っていたのです。
驚くべきは次の場所です。
町蒲生2 蒲生の舟溜まり、現在の港区公会堂南側の県有地

ここ公会堂の南側の県有地がかつての舟溜まりと言う港だったのです。
ここには仙台藩最大の米蔵が大規模にあったのです。ここで荷揚げして高瀬堀を下り、中野小学校の東側の位置で七北田川に合流して入っていったのです。

町蒲生3 蒲生の港区公会堂の南側に今も残る幕末時代の物置(?)の一つ


この舟溜まりの南側のところに今も一つだけ江戸時代の建物(物置?)が残っていました。ここは個人宅のため中には入りませんでしたが、貴重な建物です。蒲生は東北本線が通るまでは非常ににぎやかな町だったそうです。
やはりいつの時代も、物流が大事なんだなと思ったしだいでした。

蒲生の昔新データ
この絵が江戸時代の蒲生の舟溜りを表しているものです。右側が貞山運河です。
驚くべきは明治時代に鉄道が走る前に、仙台駅から蒲生まで「木道」という貨車が走っていたことです。
鉄のレールではなく木でできたレールの上に薄い鉄板を巻きその上を貨車が通っていたのです。
その停留所もこの絵の左側、すなわち米蔵群のあったところの西側まで鉄道ならぬ木道が通っていたのです。
すごすぎるよ、蒲生。


次回は、この「水の文化・見学会」のクライマックスとも言える七ヶ浜編を書くことにしましょう。


スポンサーサイト

【2010/02/09 22:06】 | 日記 | Author:斎藤良一 E-mail:info@estate-consultant.jp


プロフィール

斎藤良一

Author:斎藤良一
E-mail:info@estate-consultant.



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



アクセスキーワード(上位5件)



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる





上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。