良ちんの『日常を旅するブログ』
土地家屋調査士 斎藤良一が、旅や映画、読書等日常をつれづれなるままに書き綴るブログ
八八幡掛け
今年も暮れようとしている。通俗的な言い方だが実感として、一年が早すぎる気がする。
この暮れにふさわしい話題を書こうと思ったが、イメージがわかないので、全く違ったことを書き今年の締めくくりにしようと思う。

皆さんにとって今年一番印象深いことは何だったでしょうか? 私にとっては、あの夏の猛暑です。病院から退院してきた日の、あの暑い夏の日のことが忘れられないのです。
二つ目は、11月に宮城県護国神社に「特攻隊員の碑」ができたので見に行ってきたのですが、これがとてもかわいい石像なのです。まるでお地蔵様のようなイメージです。丁度台湾からの観光団と遭遇したのですが、みんな石像に手を合わせてくれる姿に打たれました。
その石像の後ろに「戦争資料館」があり、小さな遊就館のようです。そこには宮城県出身の特攻隊員たちの遺書や母親への手紙などが陳列されていました。とりわけ三本木町出身の特攻隊員の遺書に落涙しました。

ここで三つ目を書こうと思ったのですが、あとはいっぱいありすぎ、逆に印象が薄くなったので最近母親から聞いた驚くべき話しを紹介することにしよう。それが八八幡掛け(やはちまんがけ)です。八八幡掛けとは、戦争当時(母親は昭和4年生まれなので大東亜戦争当時、母親は12歳ぐらいです。) 出征している祖父や父、あるいは兄などが無事に帰ってくることを、そして日本の戦争勝利を祈るために、近在の八幡神社を八箇所回ってくるという民間信仰です。八幡神社はご存知のように「八幡太郎・源義家」をお祭りする神様。すなわち「武」の神様です。この「武」の神様にあやかって戦争勝利を祈ったようです。
ばあちゃんや母親、そして近所の方々とともに、朝に出立しおにぎりをもって、八箇所の八幡様をめぐり歩き祈ったそうです。

民間信仰というよりも、数え歌にもあった「八つ 八幡の 八幡様よ」にあやかり、いてもたってもいられなかった家族たちの祈りの旅だったのかもしれませんが。
それにしても、12歳の女の子が、おにぎりをもって、八箇所の八幡様を歩いてめぐりお祈りしたって想像するだけでジーンときてしまいます。


*私と仲間五人で出版した本「不動産知識帳」が、おかげさまでかなり売れているようです。
ありがとうございます。それにしても金港堂ではビジネス部門で4週連続1位らしいです。



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【2007/12/27 20:32】 | 日記 | Author:斎藤良一 E-mail:info@estate-consultant.jp
五島列島と仙台

先日、友人の五島(ごしま)さんと昼食をとった。その時の話の中でとても驚くべきことがあったので、今日はその話をすることにしよう。

五島家の先祖は、なんと長崎の五島(ごとう)列島らしい。なんでも、豊臣秀吉が行った朝鮮征伐、すなわち文禄の役、慶長の役のとき、この五島列島からも豊臣軍を手助けするために大勢の兵士が出陣したという。豊臣軍と言っても、全国の配下武将が、約20万人の軍勢を引き連れて朝鮮に行ったわけだが、当然その中には、仙台からも伊達政宗の軍勢が参戦していた。この伊達軍と五島列島の数百人の兵士たちがどこかで接点を持ったらしい。
実際、五島列島の兵士たちは一番隊の先鋒を勤め、果敢な戦いをし、素晴らしい成果を挙げたという。そのため豊臣秀吉はもちろんのこと、一緒に闘った伊達政宗の目にも彼らの働き振りが目にとまったようだ。慶長の役が終わってからどういういきさつかはわからないが、素晴らしい戦いをした、五島列島の兵士たちの一部が、伊達政宗の軍勢とともに、一緒に仙台に来たらしい。連れて来られたというのか、何なのかよくわからないが。
それからずうっと仙台に、五島列島の名前から、姓をもらい、五島(ごしま)と名乗り仙台に住み着いたという。当時五島列島で漁民か農民をしていた者が、姓をもらい仙台藩の城下に住むということは、相当評価が高かった者だけに与えられた特典だと考えられる。
代々の家系図があるらしく、ある時代は、五島、ある時代は五嶋と若干変化が見られるが、五島列島出身であることは確実だという。
仙台と長崎の五島列島が関係があったことに驚いたが、今まで五島さんとは20年以上の付き合いなのに、こういうことを聞いたのは初めてだ。

しかし、五島列島と仙台が関係するのはこれだけではない。隠れキリシタンで有名な「後藤
寿庵」がいる。彼は岩手県の藤沢町に生まれたが、伊達政宗にその才能を高く評価され重用された。後藤の本名は、もともと岩渕又四郎である。ある時期に五島列島に住んでおり、ここでキリスト教に出会い、五島列島から、名前をとり、少しもじり「後藤」に変えたのだ。下の名前も変えたが。
仙台に戻ってからの後藤寿庵は伊達政宗の下で大活躍したが時代の変化が押し寄せていた。キリシタン弾圧である。その後、後藤は隠れながら、ほとんどの隠れキリシタンは見つかり獄につながれ悲惨な目にあったが後藤は逃げのびている。ただし亡骸もわからないらしいが。
仙台にいる後藤さんが、みんな五島列島と関係しているわけではないだろうが、五島列島・・
仙台・・五島さん・・後藤さん・・ここにいくつかのつながる糸があることは確かなようだ。


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【2007/12/15 21:03】 | 日記 | Author:斎藤良一 E-mail:info@estate-consultant.jp
荒井村絵図

先日、若林区荒井土地区画整理地を通った。久しぶりに通ると、マンションは立っているし、地下鉄東西線の新駅付近を中心に住宅や店舗の建設ラッシュになっていた。荒井は昔は荒井村であり昭和初期の大合併で仙台に吸収合併された地域と聞いている。
この現在は急速な都市化が進んでいる荒井ではあるが、私は以前、荒井地区の原風景とも言うべき、江戸時代の「荒井村絵図」を見る機会を得た。今日はこの話を書くことにしよう。

その絵図はとてもおもしろく、絵図の外周の部分に距離と角度が入っている。例えばA点からB点にかけては、「辰 壱分二厘五毛  六間三尺」とある。これは辰すなわち北方向を0度とするならば、方位角120度を意味する。プラス細かい角度、壱分二厘五毛を足した角度がAからBへの角度を意味するのだろう。AからBまでの距離は、6間三尺すなわち約11.7m進んだ位置を意味している。こういった数字が外周に関してはびっしりと書き込まれている。
驚いた。かなり細かく測量していたことが伺える。外周の形は現在の外周の形とおおよそあっているのかもしれない。だとするとどうやって累積する誤差処理をしたのだろう。気になるところだ。
驚くべきはこれだけではない。土地の形態を色別で表している。現在のようにしょっちゅう田んぼから宅地へ変わったりするような時代ではなかった。たんぼはずうっとたんぼ。宅地はずうーっと宅地。変化がなかった江戸時代ならではのことかもしれない。
田んぼは黄色で塗っている。畑はピンク色である。農道は赤色で塗っている。まさしく赤道のゆえんである。川や堀は水色、イグネは緑色になっている。
また現在もある大沼などが見える。絵図の脇に書いてある所在は「宮城郡国分荒井村」とある。
縮尺はどういう風に書いてあるかというと、「絵図面 以壱寸二分為壱町」とある。すなわち1町=1寸2分のことをさす。1町=1寸2分とはメートル法で言う3000分の一のことである。
さらに端の方には、次のような記載がある。「左ハ岡田村」
なにもかもおもしろい。しかし最も奇妙だったのは、除地と書かれてある所だ。除地とは士族の邸宅などがあった場所である。その村の悪く言えば支配階級、よく言えば村の権威者であり守護者であった士族の地図は軍事上の意味からだろうか? 絵図にはかかれてなく除地と言う白地でごまかしているのだ。やはり現在と違って、地図は誰でも簡単に見れるというわけではなく、かなり重要な意味を持っていたと想像されるのだ。いずれにしても荒井村地図はずうーと見てても飽きないおもしろい地図であった。
*今日、12月8日はハワイ・オアフ島の地図を持って、連合艦隊・機動部隊がアメリカに奇襲攻撃をかけた日本にとっての運命の日でもある。

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【2007/12/08 16:33】 | 日記 | Author:斎藤良一 E-mail:info@estate-consultant.jp
ブラジルのおじさん

昨日の河北新報にブラジル・サンパウロで戦前、南米貿易でも先駆者的役割を果たした藤崎商会の伝票が見つかったことが報じられていた。デパートの藤崎が、南米貿易の先駆者だったということも驚きだったが、記事を読みながら10年以上前のあることを思い出してしまった。
それはブラジル移民としてサンパウロに渡り、久しぶりに日本に帰ってきたブラジルのおじさんのことである。ブラジルのおじさんとは、私の家内のおじさんで昭和30年ごろにサンパウロに移民として渡った方である。日本には10日間ほど故郷の名取に滞在した。毎晩、宴会が催され移民としての苦労話や楽しい話に、みんなは泣き笑いした。向こうでは、農業機械の修理工として働いたがとてつもない苦労の連続だったようだ。お金での苦労もそうだが、日本では当たり前の「安全保障」が無いのである。誰でも銃を持ち暴力やそれを背景としての窃盗等が白昼から普通に行われるそうです。サンパウロの夜は危険で一人では歩けないほどです。昼間でもサンパウロを歩くときは必ず財布を別にして小分けにするそうです。強盗が襲ったらすぐに与える財布と、本当の財布に。ブラジルは治安が悪いだけでなく、水の便、食料、交通、教育、福祉などすべてが日本とは比べられないほどひどい状況だったようです。ただそんな中でブラジル人に日本人は尊敬されていたようです。勤勉で正直で働き者が多いからでしょうか。その一人がおじさんだったと思うのです。その後、おじさんはブラジル人女性と結婚し3人の子供に恵まれ苦労しながらも、子供たちを医学部や歯学部に入れたそうです。日本以上に大学に入るのが難しく、ましてや医学部などはとても難しいんだそうです。おじさんはがんばって子供たちを医者にしたのです。すごいです。
おじさんは日本にくるのは今回が最後だといってました。仮に日本の肉親の誰が死んでももう来ないのだといってました。お金が大変なのと、今はサンパウロで自転車修理業を営んでいるため休むことができないそうです。日本での10日間は毎日宴会。そしてさまざまのところを見て周り、昔の友達とも会い、名残惜しそうに別れたそうです。そして10日間はあっという間に過ぎ去り、みんなと別れる日が来ました。もう二度と日本に来ることはなく、ブラジルの土になると言っているおじさんを見て泣きじゃくるおばさんもいました。ブラジルのおじさんは私の娘(当時小学校6年生)に次のような言葉をかけてきました。「日本ぐらい素晴らしい国は無いんだよ。日本を誇りに思って生きなさいよ。」
日本とブラジル。二つの祖国を持つことになり、しかもブラジルで苦労に苦労を重ねたことにより日本の素晴らしさを発見した、おじさんならではの深い言葉に感じ入ったのでした。

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【2007/12/03 22:00】 | 日記 | Author:斎藤良一 E-mail:info@estate-consultant.jp