良ちんの『日常を旅するブログ』
土地家屋調査士 斎藤良一が、旅や映画、読書等日常をつれづれなるままに書き綴るブログ
墓碑が語るもの
先日、知人の法事に行ったのですが、お墓参りをしたときのことです。お墓の後ろを見ていたら、3歳で亡くなった方の名前がありました。隣のお墓を見てもまたまた5歳で亡くなった方の名が見られます。えっ?と思って次々とお墓を眺めていると、やっぱり赤ん坊のときになくなっている家が多いのに気づきました。しかも、その亡くなった年代は、明治時代から昭和始めまでが異常に多いのです。これは現在では考えられないかもしれませんが、栄養失調や伝染病により抵抗力の弱い小さな赤ん坊が病魔に侵され、亡くなったと想像されます。
昭和初期生まれの母親に聞いたことがあるのですが、腸チフスや赤痢などの伝染病がすごく恐かったらしいです。つまり戦前までは、良い医療施設も良い薬も、ましてや抗生物質などが無かったからなのです。
現在は何千、何万種類という抗生物質があり、赤ん坊だからすぐに死んでしまうということも少ないでしょう。しかし当時は違ったのです。
さらに戦前は、とりわけ東北・北海道は、時々水害や大冷害に見舞われていました。特にひどかったのが昭和6年の大冷害、昭和9年の大水害・大冷害です。地域によっては米はまったく取れず、畑からの収穫も無く、赤ん坊は瞬く間に死んでしまったところもあったようです。
戦後も台風や梅雨前線による水害に苦しめられてきました。私は宮城県各地で土地の境界立会いをするなかで、多くの地権者さんからそれらの水害のことを聞いてきました。旧中田町の北上川沿いでは、決壊したために数キロにわたり田んぼが水に倒され大打撃を受けたそうです。広瀬川沿いの牛越橋付近でも、昭和23年のアイオン台風により家が丸ごと流されたと聞いています。
こういった水害はその後の疫病を発生させ、さぞや大変だったろうと思います。
いずれにしても食べるものも無く、良い薬も無い中で先人たちは苦労に苦労を重ね今日の素晴らしい日本を作ってくれたことは確かです。考えようによっては現在問題になっている「賞味期限切れ」などは、ぜいたくな問題といえましょう。食べるものがあるだけましともいえます。
明治から昭和30年ごろまでの東北の歴史とは、ずばり冷害や水害との格闘の歴史といえるのです。戦後冷害に強い米の品種改良に成功し、米の安定供給ができました。また、素晴らしい薬の開発により多くの伝染病が根絶しました。
しかし、かつてそれらがなかったころ食べるものが無く、伝染病で赤ん坊が次々と死んでいく時代があったことを忘れてはならないと思うのです。
墓碑に刻まれた赤ん坊たちの名前、それこそが東北の冷害・水害の歴史を物語っているように思えるのです。子供の健康を祈る七五三を前に記す。

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【2007/10/31 21:20】 | 日記 | Author:斎藤良一 E-mail:info@estate-consultant.jp
大東亜の旅路
私の父が最近かなりの時間をかけて、何かを書いていた。それが完成し見せてもらった。一冊のノートにびっしりと記録が書いてある。タイトルは「大東亜戦争従軍記」。出征のときから日本へ帰ってきたときまでを淡々と記述していた。これまでもメモ程度にはチョコチョコまとめてきたのだが、そのメモ類を一冊のノートにまとめたというわけだ。記録の一部を見てみよう。
昭和17年3月10日、東部28部隊、高田独立山砲隊にて入隊する。
4月3日、中支派遣要員として部隊を出発。
4月9日、中支呉松(ウースン)港到着。金華県第22師団第7932部隊松井隊に編入なる。
5月15日、(セッカン)作戦に参加。
その後、杭州、ショウコウ、東陽、義鵜、ランケイ、温州、台州、蕪村、などを小作戦を繰り返しながら進軍する。
月日不明、上海到着  5月22日、台湾高雄港に上陸する
月日不明、広東省九龍に上陸、そのごマカオ、南寧、アモイ、チャンメン、桂林、各地を経て中山大学に終結し、ト号作戦に参加する
昭和20年3月9日、南支と仏印の国境にて丸一昼夜、仏軍と交戦し勝利を得る
・・・・・
こういった記述が若干の説明や感想とともに記録されていた。

「大東亜戦争従軍記」を読んで、すごいと思った。川では馬が暴れて大怪我をしたこともあったらしい。また戦闘では、砲兵隊ゆえに測距儀で距離を測り、二つの既知点からの角度を測量し、目標を探る、いわゆる前方交会法という方法を使ったが、実際戦闘が始まると、測量どころではなくなり、ただ「バンガ バンガ 撃つだけや」というものだったようだ。恐怖心の中での戦闘はさぞや大変だったろうなと思った。
戦後の日本は、父祖たちの戦いを評価することなく、ただ自虐的に「日本は悪い」の大合唱である。ではなにゆえ戦後独立したアジアの国々は、日本の戦争のおかげで独立できた。と感謝の念を表明するのか。インドネシアでは独立記念日に三人の若者が国旗を掲揚する。そのうちの一人は日本軍の軍服を着て掲揚する。また、インドの首相は日本がイギリス軍を撃退してくれたおかげでインドは独立できたと感謝している。ベトナムもスリランカでもミャンマーでも日本への評価は高いのである。バングラデシュやパラオではなんと、国旗に日の丸を採用して日本への感謝の念を表明しているのだ。(ただし、色は違うが)
父祖たちの戦いを評価していないのは、2つの反日国と日本のマスコミなど一部の人だけなのである。「大東亜戦争従軍記」を書き上げた父は満足そうな表情でノートをみんなに見せていた。ただ熱心に見ていたのは私だけで、あとのみんなはケーキに夢中ではあったが。・・・

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【2007/10/27 09:38】 | 日記 | Author:斎藤良一 E-mail:info@estate-consultant.jp
建築家 五十嵐正

最近読了した本に「建築家 五十嵐正」という本がある。とても感銘したので、今日はこの建築家のことを書いてみよう。
五十嵐正は、丹下健三や黒川紀章といったいわゆる日本を代表するような建築家ではない。
ただひたすら、北海道の帯広でだけ、30年間に500棟の設計をした建築家である。
急逝して25年経つが、もちろん現在でも帯広に行けば彼の設計した建物はたくさん立っている。
不思議なのは、モダンかといえばそういう建物もあるがそれにこだわっているわけでもない。伝統的なものへのこだわりかといえば、そういう建物もあるがそれだけでもない。その施主の考え、その建物によって変幻自在な設計をした点である。
かといって、建築雑誌に載るような最先端の設計でもない。写真がたくさん載っていたが、いたって普通の建物なのである。ただ品があって遊び心があるどれも素敵な建物ではあるが。
五十嵐正はひたすら建物の設計が好きだったのではないかといわれている。いつも午前2時ごろまで働き、朝には普通にやってきたという。職員も何人かはいたが、基本的に500棟全部を、ディテールの部分も含め、彼が考え図面化したという。また現場が始まるとほぼ毎日やってきて、眺めていたという。どうして毎日来るのかと問われたら、「自分の設計したものが曇った日にも晴れた日にも設計の意図通りになっているかどうかを確認するためだ。」といったらしい。気に食わないと「壊してやり直せ」と工務店に命じたという。頭にきた工務店がすごむと「金は自分が出すから頼むからいったん壊してここをこうしてくれ。」とあくまで妥協しなかったという。ものすごいこだわりである。
今も当時のままの姿を損なうことなくきれいに住んでいる阿部さんと言う方は次のように述べている。「住宅なら五十嵐さんという評判で、帯広のちょっとした方の住宅はほとんど手がけていたといっても良いほどで、私も五十嵐さんに是非という気持ちでお願いしたんです。」すると五十嵐は次のように返してきたという。「阿部さん、引き受けるのは良いけれど、私の思い通りに設計させてくれ。」
しかしどの建物でも最低でも5案、多いときは10を超える案を提案してきてほとんどの方は、お任せしたという。そのためか設計だけでも4か月はかかり工事など先ほどのような工務店との激しいやり取りの中で作っていくわけだからとても時間がかかったようだ。
絶対に手抜きをしないで丁寧な設計・管理をすることを使命感を持ってやりぬいた建築家のようだ。30年間ただひたすら帯広での建築設計にすべての情熱を注ぎ、駆けぬけていった男、それが建築家・五十嵐正だったのである。最近のただ工期短縮、年間契約棟数を増やすことにだけいそしむ業者を見るにつけ、五十嵐正の生き様は衝撃的であった。あっぱれな士である。

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【2007/10/23 22:09】 | 日記 | Author:斎藤良一 E-mail:info@estate-consultant.jp
N700系のすごさ

先日さいたま市に新たにオープンした「鉄道博物館」のことがテレビで紹介されていました。すごい人気のようで、私も今度東京方面に行くときはぜひ行ってみたいと考えています。オープン初日は2000人以上の鉄道ファンが並んだというぐらい人気沸騰です。内容も素晴らしいらしく日本が誇る鉄道技術の歴史がここにいけばわかるというポイントらしいですよ。
もちろん、日本の鉄道技術を画期的に進歩させた鮮鉄(朝鮮鉄道)や満鉄(満州鉄道)のコーナーも設けて詳しく解説しているんだろうなあ。うわあ、見るのが楽しみだ。
今日はこの鉄道博物館のオープンにちなんで、もう一つの鉄道人気について紹介することにしよう。それは今年の7月にJR東海が満を持して投入した新型新幹線「N700系」の凄みについてだ。
何がすごいかというと、速度をいままでよりも15kmもアップさせているのだが、騒音を極力減らし、消費電力も極限まで減らすということをやってのけている。乗り心地もさらに快適にするため、振動を制御する性能もUPしている。この速度をUPしながら振動もさらになくするというのは、とてつもない技術陣の努力の賜物だと思う。というのは東海道新幹線は昭和39年に日本で最初に時速210kmで開通したわけだが、山あり谷ありという自然状況に加え、用地買収の難しさもあった。そのため高速にはなるべく直線が良いのだが、現実的には無理があった。そのため曲率半径R=2500を限度として曲線を多用し開通していたのだ。(ちなみにそれ以降はR=4000だ)だからこのままの状態で速度を上げることは不可能だ。そこで考え出された究極の選択とは、レールのカント(傾き)を変えずに、車体角度を空気バネによって一度傾けた。これによりカーブで生じる遠心力を減殺することに成功する。
これ以外にも数多くの新たな技術が投入されたようだが、すごいと思うのは先頭の部分だ。「わしが翼を広げたよう」と形容されるぐらいかっこいい。
日本の鉄道技術はイギリスの模倣から始まったが、満鉄のアジア号で開花し、新幹線で世界の頂点を極めた。0系、100系、300系、人気の500系、700系、しかしこの間、速度ではフランスのTGVが圧倒的な力を示した。だけど早けりゃ良いってもんじゃないですね。フランスは大平原をトンネルを掘らずに飛ばせるんだからな。その点、日本はトンネル、曲線という制約の中で技術を開花してきた。その究極の位置に「N700系」がある。
笑える話がある。ある「反日国」が日本憎しで、新幹線を無視し、無理して、フランスのTGVを採用する。ところがその国は山はたくさんあるので、悲鳴を上げているという。TGVは故障も多く、乗りごこちは最悪なのだ。ただ速いというだけのこと。
やはり日本の鉄道技術はすごい。何気なく新幹線に乗っているが、制約を凌駕しての速度だけでなく、その静粛性、快適性を含めたトータルな技術力は世界一だったのである。

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【2007/10/19 22:36】 | 日記 | Author:斎藤良一 E-mail:info@estate-consultant.jp
亀田戦を見てわかったこと

ボクシングの世界戦はとんでもないことになってしまったようだ。この世界戦によっていろいろなことが明らかになった。今日はこの話を書くことにしよう。まずはスポーツ紙からまとめてみよう。
1、亀田は予想以上に弱かった。
2、亀田の父はセコンドについていたとき何度も「どうせ負けるんじゃからひじで目やれ」と反則を指図していた。
3、これまで内藤陣営は何度と無く亀田側に対戦を申し込んでいたが、拒否されていた。
4、負けた側の亀田のファイトマネーは一億円なのに対し、勝った内藤はたったの1千万円。
5、これまで父親一つで育ててきた亀田一家を美談で持ち上げ亀田ブランドを築き上げることによって視聴率を稼ぎ莫大な利益を上げていたテレビ局がある。
6、亀田一家はこれまで負けが一つもなかったが、対戦相手はすべて外国人でそれも実力が未知数の無名の相手ばかりであった。

なんかやっと、からくりがわかってきた。負けた方の亀田が一億円ですよ。勝った方が一千万円。
そうだったのか。すべては捏造報道で有名なTBSが仕掛けてきたことがわかる。昨日から手のひらを返したように、TBSは内藤をヨイショし始めている。すべては視聴率を稼ぐためにあるときからこの個性豊かな亀田一家を持ち上げてきたのだ。そのためフィリピンやベネズエラなどのわけのわからない選手と対戦させ、勝って来たのだ。お金を渡していたのかどうかは知らないが。
しかし、これだけ人気が出てくると本当に強い内藤ともいつかは勝負しなければならない。
今回の試合は本人も含めて亀田側が負けることはわかっていた。そこでこの一億円をTBSを含めたプロモート側は用意し亀田側はしぶしぶ引き受けた。だから父親の戦略としては、反則を繰り返し、途中で乱闘になり試合中止になることが理想的だった。がうまくいかなかった。
TBSは過去にもおかしなことをやっている。K−1かプライドでも。抗議電話が5万件来たけどそのときも社長の謝罪も無くスルー。たぶん今回もだろう。すべてを「小ワル」の亀田一家に押し付けて。
TBSとはかつては民放の優良企業であった。放送内容もすばらしく。だがあるときからおかしくなってしまった。オーム事件でのひどい対応は記憶されているであろう。坂本弁護士一家殺害事件もTBSのオームへの情報漏えいで起きたといっても過言ではない。不二家の捏造報道は記憶に新しいところであろう。また、筋肉自慢の人たちが競う過酷な競技でも死者や重軽傷者を多数だしているが一度たりとも番組で公表し、社長が謝罪したことは無い。
時代物のドラマで言えば、亀田一家は「小悪党」であり、背後で莫大な利益を上げていたTBSとはまさしく「悪代官」そのものといえよう。

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【2007/10/15 22:26】 | 日記 | Author:斎藤良一 E-mail:info@estate-consultant.jp
田んぼへの祈り

先日、堤町の「堤焼・佐大ギャラリー」という所に行ってきました。仙台でも有名な陶器として「堤焼き」は続いてきましたが、現在はこの堤町でやっているところはありません。全盛期の堤焼きは15軒ほどあったと聞きます。窯は「登り窯」という燃焼効率のよい窯でしたので、ある程度は大量生産もできました。この極めて貴重な「登り窯」をそのまま残しているのが、ここ「佐大ギャラリー」だけなのです。
登り窯は6つの窯が連なっており、火が入ったところを見たら、すごい迫力だったろうなと想像されました。当時は大量の薪をくべて焼いていたそうです。
二階には焼いていた当時作られたものがたくさん残されていました。大きな甕・壷・皿・瓦・等、実用的なものだけでなく、「堤人形」もたくさんありました。どうして人形なのかというと、昔は冬の遊びは今のようにいろんなものが無くて、子供にとっては、人形が楽しみであり、それなりに売れたから作っていたとのことです。
佐藤さんから壷の見方を教えてもらいました。一個一個が手作りのため、どうしても職人さんのうまい下手があるようです。上手な人のは、丸みを帯びるところが綺麗に曲線が出るのですが、でこぼこのものもありました。
しかし私が一番驚いたのは、田んぼにまく小さな「人形」でした。昔の人は田んぼというか米がすべてでしたから、米が豊作か、凶作かが生きられるかどうかの分水嶺でした。そのため、豊作を祈り神様にすがるしかなかったのです。そこで神社にもお祈りするんでしょうが、田んぼ、そのものにも小さな人形(神様の分身か?)をまき祈ったのです。
現在でこそ、冷害に強い品種改良が行われたり、土壌改良がなされたり、用水・排水が完備されよほどのことでなければ、米がぜんぜん取れないということは無いでしょうが、昔はあったのです。また、いもち病などに代表される、米の病気もさまざまありましたが現在は優れた農薬が開発されています。
戦後、日本は土地改良法を制定し食糧増産をめざし進歩を遂げてきましたが、それ以前の時代は、神様に祈るしかなかったのです。そのため、さきほどの田んぼに「小さな人形」の堤焼きをまいていた地方もあったそうなのです。考えてみると陶器は土ですからね。その神様の分身である人形が田んぼにまかれ、土を耕していくわけですからね。神様の御利益がありそうなものです。
それほど天候に左右されていたころの米作りは大変だったということですね。自動的にどこかの工場で「米」が生産され、スーパーに並んでいるわけではないんですね。先人たちのご苦労の賜物として今があるわけですかね。そういう意味で、田んぼに「小さな人形」をまき神様に祈っていた先人たちのことを忘れないことが一番重要だと思うのです。これらのことを忘れないためにも豊作祈願祭、そして収穫した後のお祭りである「新嘗祭」をとてもとても大事なんだと認識することが日本人の務めでしょう。ということは11月23日は「勤労感謝の日」などという戦後的な嘘くさい祝日をやめ、「新嘗祭」に戻すことが何より重要だと私は考えているのです。
田んぼに堤焼きの人形をまき祈っている農家のおんちゃんの姿を思い浮かべたらジーンとくるじゃないですか。

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【2007/10/11 22:19】 | 日記 | Author:斎藤良一 E-mail:info@estate-consultant.jp
岩井家の謎
先日、ある会で昭和13年の仙台市の中心市街地地図を見る機会を得ました。そこで以前から気になっていたある家の名前が載っていました。「岩井家」です。今日はこの話を書くことにしよう。
どうして岩井家が気になっていたかというと、5年ぐらい前のことでしょうか。親交のあった伊能忠敬研究家のW氏から電話があり、「伊能忠敬は第一次測量の往復、第二次測量の往路を国分町の岩井家に泊まったと、伊能忠敬日記に載っているんだが、斎藤さんの事務所、国分町だよね。岩井家って今もあるのかな。調べてくれないか。」と質問されたことがあった。
「はい」と返事して、でもどうやって調べて良いかわからず、そのままぶん投げてて、2,3週間後に、電話して「ちょっとわかんなかったですねえ。」と暗に、少しは調べた風を装って答えてしまった。これがなんか自分の中で引っかかってたんですよ。
だからといって何もしなかったんですが。ところが今年になってどういうわけか、岩井家に関する話が二つも重なって出てきたんです。一人は私もファンである仙台の天文家のブログ上で。やはり天文暦学を研究する人ってこの岩井家を探しているんですね。いろいろな説があるけど最終的には、定禅寺通り近くの三越付近と推定し、最後に「岩井家の壁は厚し」と書き、特定できないことにため息をついていました。もう一人は「わかった。電力ビルの近くだ。」と言っていました。
そんな時、昭和13年の地図を見る機会がありそれを眺めていると、三越付近と電力ビルのところに「岩井」ってあるじゃないですか。確かに江戸時代と昭和13年では年月がたちすぎてはいますが、関係があるのかもしれない。と言って私のレベルではここでおしまい。プロたちに任せよう。
それにしても天文暦学を研究する人たちってどうしてそんなに「岩井家」が大事なんだろう。たぶん伊能忠敬日記を丹念に読んですべてを解読しようとしてるんだろうね。その執念の方が私には謎ですが。
ところでその岩井家はとりあえず置いといて、この昭和13年の地図を見ていてとてもおもしろかったですね。例えば一力邸は藤崎の西南のところにあり、ここが青葉通りにかかりました。あるいは紅久は芭蕉の辻にありました。現在の東急ホテルのところには広大な敷地を持っていた朴沢松操実科女学校、現在の南町通りの仙建ビルのところには東北学院神学部があり、東一館って言う寄席も一番丁にはあったんですね。でも変わってないところもあります。大内屋さんとか、加藤刃物店さんとか、400年の歴史を誇る佐々重さんとか。
しかしこうやって昔の地図を見ているとつくづく歴史の変遷を感じますね。古今東西、常に諸行無常の風が吹いているようです。

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【2007/10/05 21:15】 | 日記 | Author:斎藤良一 E-mail:info@estate-consultant.jp