良ちんの『日常を旅するブログ』
土地家屋調査士 斎藤良一が、旅や映画、読書等日常をつれづれなるままに書き綴るブログ
東多賀と多賀城

先日、名取の地権者さんに今は無い「東多賀」の話を聞いた。とてもおもしろい話だったので、今日は東多賀や多賀城のことを紹介することにしよう。

仙台の太白区に西多賀という地名はあるが、東多賀という地名は無い。この東多賀とはかつては存在したそうなのだ。その場所とは、現在の名取市高柳から海岸沿いまでの地区である。
確かに高柳の皇壇が原には多賀神社がある。一方、西多賀にも多賀神社がある。二つ多賀神社があるのだ。
話は飛ぶが、古代において東日本最大の都はどこかといえば、もちろん多賀城である。奈良時代から平安時代にかけて、最大1万人規模の巨大都市を築いていたそうだ。今も発掘は続いており次々とかつての遺品が発掘され続けている。先日も河北新報に載ったが太刀の頭の部分の見事な双竜(銅に金メッキがされている)が市川橋の遺跡で発見された。相当な権力者の持ち物と推定されている。
西多賀に、東多賀に、本家本物の多賀城。位置関係を地図上で見てみるが、何もひらめかない。
しいて言えば、多賀城を頂点とすると西多賀、東多賀までおよそ等距離であるから、すなわち二等辺三角形を形成している。だからなんだというんだ。
理想的にいえば、西多賀と東多賀の真ん中に多賀城があればすっきりするのだが。
ところがこれらしきものがあるのだ。西多賀と東多賀の真ん中付近に、多賀城よりもっと古い時代の国府があったのだ。ここは郡山遺跡と言い、現在の郡山中学校のあたりで、ここでも次々と遺跡が発掘されている。
郡山遺跡は多賀城が国府になる前の、古代の国府であり、どうしてかはわからないが、ここから7世紀に今の多賀城に首都を移した。
つまりは本来の多賀城は、現在の郡山中学校のあたりだったのではないのか?
もう一度地図を見てみた。やはり西多賀と東多賀(名取市高柳付近)のほぼ中央に当たる。
なんとなくすっきりしてきた。

私の親戚に「多賀城市埋蔵物センター」で働くK君がいる。彼の話を聞く機会がありとても驚いたことがある。多賀城は平安時代中期に完全に廃れてしまったが、その後12世紀ごろ、多賀の国府が別のところにあったというのだ。その位置は完全にはわかっていなくて、利府説から新田までと幅広い。わかったことがある。多賀とは時代によってころころ位置を変えてきたことだ。
郡山遺跡〜現多賀城〜位置ははっきりしない多賀の国府、多賀ってなんて深いんでしょうか。

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【2007/06/28 22:19】 | 日記 | Author:斎藤良一 E-mail:info@estate-consultant.jp
摩文仁の丘
今日は、以前沖縄に行ったときの話しを紹介することにしよう。沖縄はこれまでにも何度となく行っておリ大概の重要スポットは見ていたつもりでいたが、最も大事な場所を見忘れていた。
それが「摩文仁(まぶに)の丘」である。

平和の礎と一体となった大きな公園の一角に小高い山がある。この公園内を走る周遊バスに乗り目的の摩文仁の丘の停留所に着いた。ここも大勢の観光客がいるものだと思ったらそうでもなく、停留所の前に一軒の店があり、慰霊碑に捧げる造花が目に付いた。我々がバスから下りようとすると、おばさんグループの一人が、私に「ここには何があるんですか?」と聞くので若干の解説をしたが、「はあ?!」といったきり興味が無いようで、結局バスからは降りてこなかった。
ここから摩文仁の丘の頂上を目指し階段をてくてくと登った。登っている途中は右側も左側もずうーと慰霊碑が立ち並んでいた。それも県別に慰霊碑があり、おびただしい戦死者の数に圧倒された。上に上れば多少は観光客もいるだろうと予想していたが、誰一人いなく、結局我々だけであった。やっと頂上付近に着くと沖縄第32軍の牛島満司令長官や長勇中将などが自刃した地下壕の上のあたりにある慰霊碑「黎明之塔」があった。

牛島司令長官たちは圧倒的な米軍の攻撃に対し、砲弾・糧食・薬すべてが不足している中で、期待していた連合艦隊の援軍もなく、孤立無援の中で必死の防戦をしいられていた。県民に対してはなんとか戦闘に巻き込まれないようにしようとしたがうまくはいかなかった。米軍に徐々に追い詰められていき、ついにはここ摩文仁の丘が最期の地となっていた。沖縄戦敗戦の責任を取って牛島司令長官や長(ちょう)勇中将など幹部が摩文仁の丘の地下壕へ入って行き全員自刃。
時世の句は「矢弾つき 天地染めて散るとても 魂還り魂還り 皇国護らん」
牛島長官が持っていた日本刀は宮城県の誇りでもある松山町の法華三郎作の銘刀「大和伝」である。わざわざ松山町を訪れて「大和伝」を二振り購入してもいる。
自刃の報を聞いた法華三郎氏(現法華三郎信房氏の父親)は、「やっぱり、うちの刀か?」と言って絶句したと言う。

摩文仁の丘は絶壁になっており、周りの海が美しくパノラマで見え、その間は緑一色のジャングルとなっている。ここで牛島長官たちが地下壕を鮮血で染め、最期のときを迎えたのは、昭和20年の今日、6月23日のことである。しかし我々が見た摩文仁の丘は、青い海と緑のジャングルがコントラストを描く美しい場所であった。そこでは陽光が輝き、一陣のさわやかな風が吹いていた。

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【2007/06/23 09:32】 | 日記 | Author:斎藤良一 E-mail:info@estate-consultant.jp
東街道

先日、河原町の地権者さんから土地に関するおもしろい話を聞いた。今日はその話しを紹介することにしよう。

河原町二丁目の古城幼稚園近くの東北本線踏切のことを「東街道踏切」という。また、その道を北上し、七郷堀と交差する橋のことを「東橋」という。さらにこの道を北上し、控木通の角を西に曲がり、また北上すると聖ウルスラ学院小学校のあたりに出る。ここのバス停留所は今は、木下一丁目となっているが、以前は「東街道」となっていたらしい。
この東(あずま)街道とはいったいなんなのか。私はこれまで古い幹線道路とは「奥州街道」のことしか知らなかった。奥州街道とは河原町を通り、南材小学校の西側を通り南鍛冶町、荒町、国分町を経由して北上する例の道路である。
しかし、地権者さんが言うには「その奥州街道は伊達正宗が仙台城下の街づくりで作られたいわば、江戸時代初期に始めてできたものに過ぎない。それ以前の道路は、東街道なんです。この街道を通り、多賀城まで行ってたんです。」
なんと、奥州街道以前は、東街道を通り、国分寺、岩切、そして国府・多賀城に抜けていたらしいのです。
そういえば、東街道踏切から南下すると、かなり古い旅立神社がちょうどあります。やはり東街道が江戸時代以前の幹線道路だったのかもしれません。
ただ、東街道はこの一本なのかというとそうとは限りません。
名取郡誌では、千貫ー愛島ー高館ー熊野堂ー栗木橋ー西多賀ー大年寺ー根岸ー越路ー鹿落坂ー広瀬川を渡河ー米ヶ袋ー連坊ー国分寺ー多賀城とあります。
仙台では二つのルートがあったのかも知れませんが、いずれにしても国分寺を経て、岩切の東光寺を通り多賀城に至っていたようです。
根岸で気になったのは、オートバックスの広瀬川沿いにある道が東街道だったという点です。この細い道は以前からなんとなく気になってたんです。古そうな道だなという点だけでなく、あそこのとんかつ屋さんが。
それはともかくとして、東街道すごいじゃないですか。古代から延々と人々が通り多賀城へ行っていた道ですからね。そういえば木ノ下に宝くじを売るお店があり、よく一等賞が出ることで有名です。このお店の前の道路こそ、まさしく「東街道」です。ひょっとして一等賞がよく出るのも「東街道」の御威光のおかげだったりして。


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【2007/06/16 10:01】 | 日記 | Author:斎藤良一 E-mail:info@estate-consultant.jp
ジープ・アイランド

先週、通っている歯医者さんから、ある本をもらった。その本のタイトルは「ジープ・アイランド」。
先生はダイビングが趣味であり、休みのときにジープ・アイランドへ行きダイビングをしてきたのだという。この島がとても素晴らしいという話で診療が終わってから盛り上がった。今日はこの世の楽園と歯科医が絶賛する「ジープ・アイランド」の話しを紹介することにしよう。

ジープ・アイランドとはグアム島から南東にあるトラック諸島の中の小さな島である。その大きさは直径がたったの30m、一周しても110mしかない。そこに11本のやしの木と若干の木々があり、その中に人が泊まれるホテル、いや正確には小屋がある。しかしその海原の美しさといったら、まさしくこの世の楽園らしい。ただ激しいスコールや嵐のときを除いては。
この小さな島に住人がいる。日本人の吉田氏である。彼は世界中のダイビングスポットを制覇し、そしてこの島に住み着いてしまった。もちろんこの島だけでは物資を補給できないわけなので、本島である春島と行き来して暮らしている。トラック諸島は周囲90kmの環礁であり、この中に約90個の島々がある。吉田氏はなぜジープ・アイランドに見せられたのか。それはある一人の老人との出会いがあったからだ。その老人とはキミオ・アイセック氏。トラック諸島には数多くの日本軍の沈船があるが、それをすべて調査した伝説のダイバーである。だから世界中のダイバーだけでなく有名な映画監督もキミオ氏に会いにトラック諸島に来るほどである。このキミオ氏が管理している超美しい島がジープ・アイランドなのである。このキミオ氏と夏島で出会い意気投合した吉田氏は特別に住む許可を与えられたらしい。

キミオ氏はいつも日本酒「立山」を飲んでいた。流暢な日本語を話し日本にも来たことがある。彼はなぜトラック諸島内のすべての日本軍の沈船を調査したのか。キミオ氏の人生を貫く出逢いがあったからである。夏島で漁師の子として生まれたキミオ氏は当時トラック諸島に駐屯していた日本海軍の荷役作業に従事していた。このとき内田下士官と出逢う。内田さんは一生懸命なキミオ少年に日本語を教えさまざまな勉強も教えた。「どんな分野の職業でも良いから負けず嫌いの精神でがんばりなさい。」と教えてくれた。二人はまるで親子のような関係になっていた。そんなときアメリカ軍の急襲がきた。防空壕に隠れたキミオ少年は助かったが、目の前で内田さんの乗っていた愛国丸は撃沈してしまった。戦後、沈船調査の世界的ダイバーとなっていたキミオ氏はいつも内田さんの思い出を語っていたという。内田さんや日本を愛していた、キミオ氏も数年前に春島と夏島の間の洋上で亡くなった。そこは愛国丸の沈んだ場所の近くであった。
内田氏に大事にされたキミオ氏。その伝説のダイバー,キミオ氏に4年にわたってさまざまな教えを受けた吉田氏。彼らは美しい島・ジープ・アイランドを軸に生死を越えて繋がっているような気がした。

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【2007/06/11 21:07】 | 日記 | Author:斎藤良一 E-mail:info@estate-consultant.jp
八田ダム
測量会社にいたころ、そこの設計課長に「八田ダム」のことを教えてもらったことがある。台湾でほとんど全生涯をかけてダム建設に従事した八田與一が、さまざまな困難を乗り越えて完成したダムである。今日はこの偉大な土木技師・八田與一のことを紹介することにしよう。

日本が統治するまでの台湾は、衛生が劣悪でアヘンがはびこり、産業が何もなく、洪水や旱魃の被害がひどく、まさしくどうしようもない「化外の地」であった。
しかし新渡戸稲造先生や後藤新平など多くの日本人の努力が実り素晴らしい島へと変身していった。その一つが八田ダムである。八田ダムは黒部第4ダムより少し小さいぐらいの当時としては東洋一の巨大ダムである。このダムの完成により、広大な農地が出現し米やサトウキビが取れるようになった。このダムを設計したのが八田與一である。八田は10年以上の歳月をこのダムに捧げ台湾人から慕われた。しかもただ大きなダムを作っただけではない。台湾は巨大地震が時々来ることを見越し、設計も地震に強いセミハイドロリックフィル工法を採用した。また台湾人を心から愛しており、労働者のためにと、病院・学校・大浴場を整備した。さらに娯楽施設・弓道場・テニスコートまで完備させた。(日本でもまだ無い施設なのにである。) 芝居一座を呼び寄せ、映画を上映し、お祭りも企画し労働者・家族みんなが楽しめるようにした。
こうして八田は台湾人から「嘉南大洲の父」と慕われ、そして工事も順調に進んだ。
しかし、発破作業では多くの尊い人命も奪われた。八田はいつもの作業服姿で遺族のお見舞いに奔走した。台湾式の弔意を示し「申し訳ない。工事を続行するかどうか検討する。」と謝ると、なんと遺族から、「八田さんは俺たちの親父のようなものだ。俺たちのために台湾のためにぜひダムを完成させてくれ。」と逆に激励されたという。

こうしてダムは完成した。世界中から評価され、土木学会でも正式名称として「八田ダム」と命名された。完成後、八田與一は次の赴任地であるフィリピンに船で向かったがその船がアメリカ軍に攻撃され撃沈した。八田與一56歳であった。その後、八田の奥様もあとを追うように八田が全精力を傾けた「八田ダム」の放水口に身投げをした。
現在に至っても、八田の命日には、台湾の農民が多数、ダムのほとりにある八田與一の銅像前に集まり慰霊をしてくれている。
今、日本を訪問している台湾の李登輝氏は「八田與一こそ、世界に誇れる日本精神の体現者でしょう。」と絶賛する。今でも、ダムのほとりに立つ八田の銅像の前を通る台湾人は必ず八田に手を合わせるのだという。

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【2007/06/07 21:06】 | 日記 | Author:斎藤良一 E-mail:info@estate-consultant.jp
紙芝居の豊潤な世界

紙芝居を趣味としてサークルを立ち上げているY氏と知り合った。彼の紙芝居の話がとてもおもしろかったので、今日は紙芝居の話しを紹介することにしよう。

仙台最後の紙芝居師・井上藤吉氏が亡くなったのは昨年の暮れだそうだ。井上氏はよく鶴ヶ谷あたりで紙芝居を行っていた。井上氏は生前彼の所有していた膨大な紙芝居のほとんどを、ある公共機関に寄贈していた。未来の子供たちのために。その点数は5300巻にも達するという。ところがこの貴重なな紙芝居がすべて「文化財」に指定されてしまったために、我々普通の市民は見ることも不可能になってしまった。 なんと学術研究者にだけ閲覧を許可するという。
私はY氏に言った。「え?それじゃあ、完全に死んだ文化ですね。井上氏はまさかそんなことになろうとは思ってなかったでしょうね。戦前や昭和20年代から30年代の紙芝居黄金期のころの作品こそ私は見てみたいですよ。例えば怪傑ハリマオとか、ゼロ戦などの活躍を描いた大東亜戦争ものを。」
Y氏「そうそう、私もそう言うものを見てみたいんですよ。ただね、ほとんどはその公共機関に寄贈したけど、井上氏が亡くなる直前まで住んでたある老人施設に、氏が最も大事にしていた紙芝居を数点だけ寄贈しているんですよ。これらの作品はその施設長が許可すれば見れますよ。
やはり素晴らしいできばえの作品で、白孔雀とか思い出のリンゴ園とかいいですよ。
それと大東亜戦争時の作品は、すべて占領軍に検閲を受けていて、井上氏が持っていたものもその検閲を受けOKが出たものだけでしょう。つまり不許可になったものは占領軍が没収し、焼いて捨てたか、アメリカに今も隠されているでしょう。それらの作品はいわゆる戦意高揚紙芝居といわれるものですね。たぶんこういう占領軍が恐れた作品にこそ素晴らしいものがたくさんあるような気がしますが、我々は永久に見ることはできないでしょう。」
私「え?紙芝居という子供たちの楽しみにまで占領軍は手をつけてたんですか。」と大変驚くと同時に怒りがこみ上げてきた。
しかし、Y氏の手元にあるわずかな点数ではあるが、古い時代の作品を丁寧に見てみた。「金太郎」「愛馬とともに」・・・どれもこれも素晴らしい。シンプルだがおもしろい。子供たちを熱狂させた日本独自の文化である紙芝居。そこにはプロの絵師たちによる魂がこもった豊潤な世界が広がっていた。


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【2007/06/04 19:24】 | 日記 | Author:斎藤良一 E-mail:info@estate-consultant.jp