良ちんの『日常を旅するブログ』
土地家屋調査士 斎藤良一が、旅や映画、読書等日常をつれづれなるままに書き綴るブログ
椿油

先日会った地権者さんは、以前、椿油を利用し化粧品を製造していた会社の社長さんで、椿油の話をしてくれたのですがとてもおもしろかったので、今日はこの話しを紹介することにしましょう。

社長さんの会社では、陸前高田の山の所有者と契約して、大量の椿(つばき)の実を買い付けていたのです。この実の皮をとり、炒め、そして時間をかけて煮ます。この段階で油が取れますが、さらにこの油を精製し、椿油が完成します。
この椿油を使って古くから化粧品を作っていたそうですが、椿油って食用にも使われているらしいのです。高級料亭やこだわりのてんぷら屋さんでは、椿油を使っています。実際、この油を使って食べるととてもおいしいそうです。
社長さんが言うには「オリーブオイルなんかより優れていて非常に高価なんだよ、椿油って言うのは。」
食用だけでなく、医療用にも椿油が使われているようです。アトピーにも効くようで、当然、椿油を使った化粧水なども販売されてるそうです。しかし、昔から最も使われていたのは髪を整える、整髪料としてです。日本髪やお相撲さんの髪を整えているのはやはり椿油なんです。
さらにはスキンクリームや石鹸にも使われており、非常に肌にいいらしいのです。
さらにさらに、椿油は灯用の油にも使われていた万能で超優れものだったようです。
つまり、椿油とは、整髪料・化粧品・シャンプー・ハンドクリーム・石鹸・医療品・灯用の油・食用油
・・・・とあらゆる物に使われている一級品といえます。植物オイルのイチローですか。

ただ、主力の整髪料が、椿油から化学製品にとって変わられていた時期がありました。社長さんのところも事情があり、椿油を使った化粧品製造はやめることにしたらしいのですが、最近、資生堂でも椿油を使った商品を重点的に宣伝しているようです。やはりいいものは良いという事でしょうか。
今日の河北新報には縄文時代初期のころの「麻の実」から採油した痕跡が土器から発見されたという記事がのっていました。たぶん椿の実も使われていたでしょう。
結局、化学製品は便利だとか言っても体に一番いいのは古代から使われているものに戻るんだよね。社長さんは化粧品製造はやめたとはいえ、今も椿油には思い入れがあることがわかる。
言葉からだけでなく、今度の会社名「サン・フラワー」からも。
サン・フラワーの和名はツバキである。

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【2007/03/30 22:29】 | 日記 | Author:斎藤良一 E-mail:info@estate-consultant.jp
山の達人

今週あったおじいさんは「山の達人」でした。話がとてもおもしろかったのでご紹介しましょう。

そのおじいさんは船形山のほうに山を持っていてかなりの頻度で山に入るそうです。下草刈り、雑木処理、崩れかけた道などの補修、山菜取り、きのこ取り、・・・・・
仕事はたくさんあるそうですが、一年中山で暮らしてもあきるどころか、毎日が楽しいそうです。その中でもとりわけ楽しいのは、春の山桜を見ること。それと夜の満月を見ること。山で見る満月はぞっとするほど美しいそうです。

夜も山にいるって不思議だと思ったら、なんとおじいさんは、山に山小屋まで建ててそこに時々泊まるそうなんです。風呂も台所も便所もすべてあり、近くには小さな川があります。ここの水はとてもきれいでそのまま飲めるそうです。孫たちや知り合いの人たちも山小屋に来て楽しんでいくそうです。あるときドイツの留学生をステイさせたとき、そのドイツ人はぜひ山を見たいというので連れて行ったことがあるそうです。もちろんその山小屋にも泊まらせて。
するとドイツ人は船形山の深さに驚いたそうです。太いぶなの木を見て、その20歳の青年は「この木に登りたい」と子供のように駄々をこねたことをおもしろがってました。ドイツ人も太いぶなの木に何かを感じたのでしょうか。

おじいさんに熊、恐くないですか?って質問してみました。すると、「何にも恐いことなんかないよ。熊はとにかく人間を恐れてるよ。普通は熊のほうから逃げていくな。ただ出会いがしらでしかも熊も子供連れてるときは危険だな。熊は子供を木の上に上らせてそして人間をじいっと見て様子をうかがってるもんだ。いかに出会いがしらで出会わないようにするか、そこが大事なんだ。風下にいる場合熊のにおいなどにすばやく気づくことも大事だな。それと「けものみち」に近づかないことも大事だ。おじいさんは山に入るときは、銃を持つことはまれだが、あるものはどんなときでも携行するという。それは「マタギ刀」という、少し長いナタのことだそうだ。日本刀の材料である和鉄で作られている立派なものらしい。どんなときでもこのマタギ刀を腰にぶら下げて山に入るらしい。
おじいさんの言葉で一番印象深い言葉があった。「一年中、山が好きだけど、今頃から5月にかけて山がおっきくなっときが好きだな。」 木が芽吹き、若葉が茂る季節のことを「山が大きくなるとき」と表現するんだ。なんて素敵な言葉だ。山の達人は明日もマタギ刀をぶら下げて、時々写真撮りながら、山を歩いていることだろう。

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【2007/03/24 19:03】 | 日記 | Author:斎藤良一 E-mail:info@estate-consultant.jp
四阪島

建築基準法を調べるために、建築知識という雑誌の少し古い号を見ていた。その巻末の方に建築漫遊記というなかなかおもしろい記事がありましたので、今日はその話を紹介しましょう。

そこで取り上げられていたのが「四阪島(しさかじま)」。四阪島とは愛媛県の新居浜の沖合い20kmに浮かぶ4つの島の総称である。これらの島には今も明治時代に作られた、とても美しい建築物があるのです。雑誌にはカラー写真でそれらの建築物が載っていたのですが、アールヌーボー風の美しい建物です。と同時になぜこの小さな誰も知らないような島々にあるのか不思議に思ったのです。
四阪島とは住友家が別子銅山で採掘した鉱石を精錬する工場群があったところです。なぜかといえば、もともとは別子銅山や新居浜で精錬していたのですが、煙害(公害)がひどく付近の農民たちから激しい反対運動が起きたために、瀬戸内海に浮かぶ四阪島を買い取り、そこで精錬を開始したといういきさつがあるのです。
住友家の莫大な財産はこの別子銅山と精錬所があった四阪島によってもたらされたといっても過言ではありません。そのためこの四阪島にも小学校から病院、娯楽施設などあらゆる施設が、住友家のお金で作られたのです。この美しい建築物ももちろんそうです。しかしこの建築にはもう一つ別の要因もありました。それは住友家15代目の家長、春翠(しゅんすい)の存在である。
春翠は品のいい顔立ちですが、実は華族から住友家へ婿養子に入り、家長を継いだ人なのです。ヨーロッパの上流社会での生活もあることから、住友家が総力を挙げて事業に取り組んでいたこの四阪島や別子銅山に美しい近代建築物を建てることを命じたのです。
指名を受けた建築士は、野口孫市。彼が建てた美しい建物こそ「日暮別邸」と呼ばれるものです。まさしく住友家の四阪島の別邸だったのです。

日暮別邸に象徴されるような、四阪島の繁栄は産業構造の変化によって凋落していきます。小学校も閉校し5000人もいた従業員は一人もいなくなります。精錬工場は一部だけ残り「酸化亜鉛」を生産しているそうですが、従業員は新居浜から出ている通勤船で通っているのだそうです。
四阪島の繁栄を象徴する西洋館「日暮別邸」は、今も海を見下ろす崖の上にたたずんでいますが通勤船しかない以上、一般観光客が見ることはできません。それが少し残念です。


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【2007/03/17 14:46】 | 日記 | Author:斎藤良一 E-mail:info@estate-consultant.jp
宮床にて

大和町宮床に行く機会がありましたので今日はそのときの話を書きましょう。
私は宮床の東北測量専門学校(現、東北理工専門学校)卒業なので、宮床にいたことがあるのですが、その当時は宮床が歴史的な町であるなどとはまったく知りませんでした。

今回は、宝蔵(たからぐら)というところに行きました。ここでは七ツ森のことから宮床の歴史全体がわかる歴史館なのです。驚いたのは宮床は伊達家と深い関係があり、宮床小学校の西南のところにお城があったことです。初代の城主、伊達宗清。二代目の城主、伊達吉村はなんと仙台藩の五代目のお殿様になる人です。びっくりです。何ゆえ宮床と仙台藩の伊達家がこんなに濃密な関係になっているんでしょうか。
お城があるとは尋常ではありません。白石にもありますがここは伊達家と切っても切れない片倉家があるところです。それと同じレベルだったことになります。
城の絵地図を見ました。本丸から二の丸、その他の屋敷群、庭園とかなり本格的だったようです。宝蔵の南側の山に登るとおもしろい立体的な地図がありました。透けたガラス式になっていて、宮床小学校が右側に見え、上の方には七ツ森が見えます。そのガラスには昔の城が描かれていて宮床小学校の西南の辺りにあったことがわかる仕掛けになっているのです。いまは森になっていました。
一説には、宮床城は伊達の殿様の逃げる場所との説があります。つまり、仙台藩を出て郷六(ここにも城ではないですが郷六屋敷とよばれた要害がありました。)を通り、根白石に行きます。根白石にも小さな白がありました。さらに要害川付近の八幡神社を北に進むと宮床に至ります。
意外に仙台と宮床は近いのです。しかも西のルートを通ると仙台藩と密接な関係のある要害を通ることになり、安全に殿様は宮床に逃げることができたのです。この説もまんざら嘘とは言い切れません。

この宮床城だけでなく気になる場所がありました。例えば、信楽寺跡です。松倉山の南側に寺院群があったそうですが、明治初期に焼失したそうです。七ツ森も修験僧たちの修験の場所だったそうです。かなり宮床は深そうです。しかし、こんなすごいところに観光者は誰も来ていませんが。


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【2007/03/12 11:17】 | 日記 | Author:斎藤良一 E-mail:info@estate-consultant.jp
宮大工の心粋

先週、知り合いの建築士と飲んでいた。私は「今まで見た建造物で一番良かったものはなんですか?」という質問をしてみた。すると先生は「うーん。やっぱしさ、宗教建築にかなうものは無いよね。何年か前の話だけどね、奈良の室生寺に行ったことがあるのよ。室生寺には有名な五重塔があるけど、そのときは冬だったのね。よりによってというか、幸いにというか、ちょうど雪が降ってきたんだな、これが。石段の真下から、室生寺の五重塔を仰ぎ見たのよ。雪の降りしきる室生寺の五重塔はとてつもなく美しかった。寒かったからじゃなくて、あまりの美しさに全身が震えるほど感動した。そしてなぜかわかんないけど、涙があふれてきたんだ。あれが一番感動したかな。」

冬の室生寺の五重塔か。私は行ったことがないけど、この話を聞いてぜひとも行ってみたいと思った。ここの五重塔は日本一小さな五重塔だけど石段が結構あり、下から仰ぎ見る関係で写真などで見ると大きく見える。さぞかし美しいんだろうなあ。同時にこの塔を精魂込めて作った宮大工の心意気も感じてみたいと思った。
私の知り合いに加藤さんという宮大工さんがいますが、彼の仕事ぶりや話にはいつも感心させられます。加藤大工は定義山の五重塔を作った人であり、最近では大崎八幡神社の大修理を手がけた有名な宮大工さんです。彼の話は味わい深いものがあります。
やはり日本の寺社仏閣で好きなのは、室町時代から戦国時代に掛けて作られたもので、とても丹念に作られているそうです。大崎八幡神社は江戸時代初期とはいえ、戦国時代の名残をとどめていて素晴らしい建築物だそうです。おもしろいのはあれだけの建築物なので秋田杉や有名どころのヒノキを使っているかというと、そうではなく、大崎八幡神社付近から採ったなら、ぶな、けやき、さくら、など、すなわちその辺の材木でまかなっているという点です。(もちろん重要な部分は杉やヒノキを使ってますが。)そのため木はまっすぐでなく曲がっているものが多く、その木の特性を生かしてうまく利用しているらしいのです。本来住宅というのはその地域にある材木を使うのが一番いいんだろうなあ。加藤大工はさらに「俺はコンピューターも使えないし設計図って言っても簡単な図面で、後は現場で、つまり勘でやってるんだな。俺はとうちゃんに教わったとおりにやってるだけなんだ。しかし室町時代の建築物を見るとつくづく当時の宮大工のすごさを感じるなあ。俺なんてまだまだだよ。」

こういう素晴らしい宮大工さんが連綿と続いていることに俺たちは感謝しないといけないね。

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【2007/03/07 21:45】 | 日記 | Author:斎藤良一 E-mail:info@estate-consultant.jp
執念のショートカット

最近読んだ本でよかったのは、「土地の文明」竹村公太郎著 という本です。土地に関する歴史的な考察ですべておもしろかったのですが、その中でもとりわけ印象深かったのが、北海道の石狩川の河川改修工事の部分でした。今日はこのお話を書きましょう。

石狩川という大河川は今でこそ、まあまあ直線っぽく流れてますが、明治時代は蛇行を繰り返す川だったそうなんです。北海道は明治以降、内地から多くの人が移住し苦労しながら農業や酪農を行ったところですが、ここ石狩川周辺にもたくさんの入植者が入り格闘していました。
しかし、この石狩川は見た目のゆっくりさとは裏腹に、農家にとっては「魔物」の川だったのです。この周辺の土地は実は「泥炭層」であり、その深さは20mに及び、米作りがこのままではできないほどでした。そこで入植者たちは土を取り、農作土を他から搬送した。ところが下の泥炭層は水分を含むため、せっかく持ってきた農作土が腐食しだめになる、この繰り返しだったそうです。

そこで、泥炭層から水分を抜く作業に取り掛かります。排水路をつくり石狩川へ流そうとするのですが、石狩川の水位は高く逆に押し戻されてしまったのです。強制的にポンプで泥炭層の水を石狩川へ流すのですが、明治時代に高価なポンプは入植者たちにとって買えるものではありません。
明治31年、石狩川で未曾有の大洪水が起こったことを憂慮し、政府はついにこの対策に乗り出します。それが「執念のショートカット」です。どういうことかというと、石狩川は当時蛇行が多かった。この蛇行部分をショートカットし直線にすれば、水の流速が増し、川底は水流で削られて、結果的に水位が低下するのです。
この大規模な河川改修工事は大正7年に始められたのですが、次々と直線にしたため石狩川全長の約30%、すなわち100kmを削り取ったのです。そのため各地に三日月湖も残ったそうです。この大工事によって泥炭層の水分も川へ流れ、入植者たちは農業ができる環境になり、その後の北海道の発展に役立ったそうなんです。

このショートカットを行った当時の技師たち、建設工事関係者、泥炭と格闘した入植者たち、こういった人たちのおかげで今の北海道があるんだな。今度北海道に行ったときは、飛行機上から石狩川を眺めてみようかな。技師たちの執念の産物である石狩川の直線が見れるはずだ。


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【2007/03/03 10:41】 | 日記 | Author:斎藤良一 E-mail:info@estate-consultant.jp