きょうは、細倉鉱山跡を見学したときの話しをしましょう。
来年の三月で石越町ー鶯沢(細倉鉱山)を結ぶ栗原電鉄が廃線になることで、これを惜しむ鉄道ファンで別れを惜しむ旅が人気を博しているようです。しかし、細倉鉱山の最盛期は現在を知る我々からすると驚くほどの繁盛だったようです。例えば、まだどこにもラジオが一般的ではなかったころに、細倉鉱山の住宅街では、ラジオのアンテナが林立していたことでも、そのすごさが伺えるのです。
細倉鉱山はかつては、金や銀、銅も産出していたようですが、全国レベルで産出量を誇っていたのは、鉛と亜鉛です。亜鉛は鉄の腐食を防ぐ重要なものであり、船の防錆剤に、あるいは屋根の表面を葺く材料として重要なものでした。
江戸時代においても細倉鉱山の重要性はぬきんでておりました。この地域一帯はこれらの豊富な資源によって栄えていたのです。それを示す証拠の一つに「当百文」がありました。「当百文」とは、この地域でだけ使われていた貨幣であり、主要産物である「鉛」と「亜鉛」の合金で作られていたのです。
細倉鉱山跡(マインパーク)の売店で現在も、この「当百文」が売られているのを見て、びっくりして思わず買ってしまいました。とても重く大きな貨幣であり、解説書では江戸時代の貨幣と同じ世大きさ、分量で作っているとのことでした。貨幣には穴が開いており、上下に、当と百の文字が刻まれていました。
当百とは「百文に相当する貨幣です」という意味であり、当時の貨幣価値は知りませんが、ある程度以上の価値があったものなのではないでしょうか。売店では1050円で売っていました。細倉鉱山は閉山したとはいえ、あまりにも大量の亜鉛と鉛の残りがまだあり、それらを観光資源としてこの江戸時代に流通した貨幣を作り、販売しているようです。
「当百文」、江戸時代にこの地域だけで流通した貨幣があったとはすごいものです。この地域は現在は単なる過疎地扱いですが、繁盛していた時代を映す鏡こそ、この貨幣といえるでしょう。
しかし、感動して「当百文」の貨幣を買ってきたのはいいのですが、結局、事務所の文鎮として使っているのが実情ではあるのですが。
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