良ちんの『日常を旅するブログ』
土地家屋調査士 斎藤良一が、旅や映画、読書等日常をつれづれなるままに書き綴るブログ
A君の個人的体験

ことしは、学校でのいじめ事件が多発し多くの尊い命が失われたましたが、私もとても驚くべき個人的体験を聞いたことがあるので、紹介します。


仕事の関係で付き合いのある青年A君の体験したお話です。A君はある大手会社の営業マンであり、成績抜群の将来を嘱望される若者です。朝は7時半から会社に来て働き、夜も11時ごろになるそうです。月に休みは一日ぐらいと激務をこなしています。


「すごいがんばりだね。」っていうと、A君はがんばる理由、それも恐ろしい中学2年のときの体験談を話すのです。お父さんの転勤で京都のある中学に、二年生時に転校したそうなのですが、そこで激しいいじめにあったそうなのです。毎日毎日放課後に校庭で10数人に取り囲まれ殴られけられ小突き回される毎日だったそうです。よりショックだったのは、先生がたは見てみぬふりをし、リンチが行われている校庭の隅っこのほうを逃げるように帰っていったことでした。リンチはさらにエスカレートし、なんと職員室の前でも行われたのですが、どの先生方も助けてはくれなかったそうです。


学校は無法地帯であり、ワルの卒業生たちもよく遊びに来ており実質彼らが支配している様だったそうです。先生方は不思議なことに普通の授業ではなく、しょっちゅう「人権教育」とか、「平和教育」とかをプリントを使ってやっていたそうです。またなぜか、先生方はどこに行くのかわからないけど、休みが多く、自習時間が多かったそうです。A君はこのままでは殺されると思い、お父さんにお願いし、自分だけおばあちゃんのいるある県に転校をしたのです。そして彼は助かり現在があるのですが、彼のがんばりの秘密はここにあったのです。中学二年のときに彼を襲った人生最大の苦難がA君のトラウマになっていたのですが、ここから逃れて強い自分を感じたい、それがA君を駆り立てている原動力になっていたのです。仕事で見返したいという思いが。がんばれA君。


それにしても、「人権」「平和」を語り、一方では子供たちのことを、これっぽっちも愛していない教師たちって一体なんなんでしょうか?


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【2006/12/29 10:51】 | 日記 | Author:斎藤良一 E-mail:info@estate-consultant.jp
気になる昭和30年代

去年から今年にかけて見た映画を俯瞰してみると奇妙なことに気づく。無意識のうちに昭和30年代を舞台にした映画をいくつか見ていたのだ。今日はこれらのことを書いていこう。


昨年見た映画が「渋谷物語」だ。戦後の混乱期に渋谷を拠点に勢力を拡大した実録のやくざ安藤昇の物語だ。戦後は日本に警察力も軍隊もなくなったことをいいことに、日本人を暴力でねじ伏せ不法行為の限りを尽くす集団がいた。腕っ節が強い大学生・安藤がこの状況に腹をたて不法行為集団と渡り合い、勢力を拡大していくという物語だ。これも昭和30年代のことだろう。


「三丁目の夕日」も見たが、これは昭和33年の東京を描いたものらしい。集団就職で青森から出てきた女の子や、東京タワーを作っている最中の映像が出て、日本の経済復興がいよいよという時代が表現されていた。この映画もおもしろかった。


それと、「フラガール」映画自体もおもしろく、天才女優、蒼井優のラストも圧巻だった。子供のころなぜ、福島に常磐ハワイアンセンターというものがあるのか不思議だったが、そのなぞも解けた。


私の仕事は、土地の境界立会いをし測量をするのがメインのため、各地の土地の歴史を知ることになる。登記簿の所有権の歴史も知る機会も多いため、戦後の土地所有権の移り変わりをつぶさに見てきてしまっている。


ここでタイトルになるのだが、戦後の歴史の重要なキーワードが、昭和20年代後半から昭和30年代初頭なのだ。このころ日本ではさまざまな動きがあった。経済復興、エネルギー革命、都市の勃興、農地改革、給料の値上がり、・・・・


普段仕事で不思議に感じている歴史的な事柄を、これらの映画を見て「あ、そうか。」と感じたのに違いない。昭和20年代後半から30年代にかけてあまりにも急速に大規模な変革があったのだろう、この日本において。


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【2006/12/27 22:31】 | 日記 | Author:斎藤良一 E-mail:info@estate-consultant.jp
ペン・ステーション

今年も、各地を旅してきましたが、その中から印象深いスポットを時々紹介することにいたしましょう。きょうは、東京、京橋の「ペン・ステーション」を紹介することにしましょう。


ペン・ステーションとはパイロット万年筆が運営している万年筆博物館といったもので、これまで同社が創業以来作ってきた、万年筆を展示し解説している場所です。東京駅からも近く八重洲口から歩いて5分ぐらいでしょうか。1階がおしゃれなカフェであり、その二階がペン・ステーションです。


パイロット万年筆は大正時代に創業した万年筆メーカーですが、なんといっても世界的に有名にしたのが、表面を日本の至芸である「蒔絵」という技法の漆塗りにしたことです。現在もこの素晴らしい「蒔絵」の漆塗り万年筆は販売されており、「エンペラーコレクション」や「ニッポンアートコレクション」「ユカリ・コレクション」などの珠玉の作品群があります。


しかし、大正時代に漆聖といわれた松田権六氏をお迎えし技術指導をしていただき、多くの素晴らしい一品を作りました。蒔絵作家70人を擁する「国光会」も創設され、次々と美しい作品を作り、世界にパイロットの名声を広めたのでした。


解説員にいろいろ教えていただきながら、その大正時代の美しい蒔絵による万年筆を眺めていたのですが、驚いたことがありました。それは、漆聖の松田権六氏は、技術指導はしましたが、万年筆で作ったのはたった一本しかないという事実でした。その一本は、昭和天皇に献納されたそうですので、ここのペン・ステーションでも見ることはできません。


いづれにしましても、ここペン・ステーションで、素晴らしい蒔絵の万年筆コレクションを堪能しただけでなく、数々の万年筆を見て楽しむことができたのでした。


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【2006/12/23 21:45】 | 日記 | Author:斎藤良一 E-mail:info@estate-consultant.jp
作神様

きょう、行ってきた現場は、宮崎町というところなのですが、ここは奥羽山脈の麓という感じのところで、その最西端の集落のはずれです。


ここには古い時代からの農道が通っており、地権者のおばあさんに聞くと、昔は幅が広く2間(3.6m)ぐらいあったとのこと。今は別のところに立派な道路ができたため、この古い農道は使わなくなり、いつの間にか雑草や雑木が生え、道路の形自体なくなっています。


しかし、戦前は、牛車や、馬車がはしっていたそうです。というのも、奥の森から杉などの木を切り、その牛車や馬車に刈った木材を積み、町に運んでいたそうです。しかし、今はこの道路は見る影もなく、いわれなければわからないでしょう。ただ「公図」という法務局にある権利関係を表す地図にはやはり農道がしっかり残っているんです。この辺がおもしろいところなんですが。


この地域は杉が豊富なところであり、戦前は、陸軍へ大量の材木を供出していたそうです。現在畑になっているあたりも杉林だったんだよ。とおばあさんは解説してくれました。


この農道の一角には、道祖神って言うのかな。そういう神様があり、おばあさんの話では、なんにでも効くありがたい神様であるらしい。お産の神様、五穀豊穣の神様、村を守る神様、疫病(病気)から守る神様、子供を守る神様・・・・・、おばあさんは「作神様」と呼んでいましたが。


ここにはもう何回か、来なくてはならないのですが、おばあさんに「1月にまた来ます」といったら、「1月は雪すごいよ。測量するなら年内中に来たほいいよ。」とアドバイスをもらいました。


なんにでも効く神様に守られてきた、奥羽山脈の麓の集落はまもなく、深い雪に閉ざされるのでしょうが、深い雪に負けずに集落を守ってきた歴史を刻んできた所でもあるようです。


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【2006/12/21 18:27】 | 日記 | Author:斎藤良一 E-mail:info@estate-consultant.jp
石炭馬車

きょう、子供のころ札幌に住んでいた方とお会いしていました。そのお話がとてもおもしろかったのでご紹介しましょう。


このお方は1970年ごろまで札幌に住んでいたらしく、まさしく札幌オリンピックの少し前であり、大都市になる前ののんびりとしていたころの札幌です。当時はまだ地下鉄も通ってなく、秋から春まではなんと街中を「石炭馬車」が走っていたそうです。石炭馬車とは文字通り、石炭を積んだ馬車であり、各家々で必要な石炭を、売って歩いていた馬車のことを言います。馬が糞をしては困るので、馬の後ろのところには「こも」という袋のようなものをあてがっていたようです。各家々では暖炉にペチカを使用していました。ペチカとは一箇所で暖め、そのあったかい水蒸気を各部屋に、スチームを通して暖める方法でとてもホカホカしてよかったようです。しかし、その煙が各家々から出るため、札幌の冬の町の空は、煙で覆われていたようです。


このように札幌という町は冬が長いため、各家々で大量の石炭を必要としていました。まだ石油が使用される前でしたので、せべて燃料は石炭だったのです。だから燃料店では、「石炭馬車」を仕立てて街中を走り、石炭を供給していたということです。この石炭を保管する「貯炭場」と呼ばれる物置がどの家にもあったそうです。


札幌は半年間が寒いため、さぞかし暮らしづらいかというと、少なくとも子供にとっては関係なかったようです。近くにはアメリカンスロープと呼ばれていた丘があり、冬はまさに子供の天国だったそうです。現在はそこは、丘が取り崩されて宅地化し、高級住宅街に変わっていたそうです。


札幌は170万人を越える巨大都市に変貌し発展を続けていますが、石炭馬車が走るのどかでゆっくりとしていた時代も、とりわけ子供にとっては、素晴らしい天国だったことは間違いないようです。


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【2006/12/20 21:19】 | 日記 | Author:斎藤良一 E-mail:info@estate-consultant.jp
侍屋敷

ある地権者の方から土地の相談を受け現地を見てきました。そこはかつてご自宅があったところなのですが、今は荒地になっております。ところがそのかつてのご自宅は、明治初期に建てられた、いわゆる侍屋敷だったそうです。今日は侍屋敷について書いていきましょう。


宅地部分が150坪ぐらい、隣接する畑が200坪ぐらい、宅地の前にある元田んぼが600坪ぐらいあるでしょうか。この一画がかつての侍屋敷だったそうです。侍屋敷といっても、大名屋敷のようなものではなく、イメージとしては、映画「たそがれ清兵衛」の屋敷のような、小さな家と畑、田んぼがあるという感じです。すなわち武士といっても、農地を耕し自給自足の生活をする武士だったのでしょう。この屋敷は昭和40年代まではあったそうなのですが、ゆえあって、仙台に引越し、かつての屋敷は壊し現在の状態になったそうなのです。


しかし、かつての侍屋敷の痕跡はとどめています。井戸があったり、防風林があり、小さな小川が流れているのですがここに洗い場があったりします。防風林ははば10mぐらいある立派なものであり、竹林や杉、栗の木などで覆われていました。


地権者さんの子供のころの話が良かったです。この古い屋敷の間取りを書いて説明してくれました。三つの部屋(ここに寝る)以外に納戸があり、台所と居間があり、さらに土間があります。土間には薪で炊くかまどがあったそうです。屋根はかやぶきです。この屋敷の右隣には、作業場があり、そこでは蚕を買うための蚕棚があったそうです。さらに屋敷の裏側には観音様があり、正月以外にも月一回だんごをあげる日があったそうです。地権者さんは、懐かしそうにかつての屋敷跡を見てまわっていました。「子供のころ楽しかったなあ。正月なんかは楽しみでしょうがなかったですよ。」


周りはかなり宅地開発が進んでおり、ここがかつての侍屋敷と知る人も少なくなっているでしょう。しかし屋敷の痕跡は今もとどめているのです。ぶ厚い防雪林や井戸、小川の洗い場に、何よりも地権者さんの子供のころの記憶の中にしっかりと生きていたのでした。


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【2006/12/19 19:26】 | 日記 | Author:斎藤良一 E-mail:info@estate-consultant.jp
多門通り

きょう、一番町のある地権者の方にお会いしました。そのとき、おばあさんは、おじいさんに「多門通りの脇の・・・・・」と南町通りのことを、多門通りと呼んでいたのです。南町通りは、戦前から唯一ある大きな幹線道路なのですが、今日は、この多門通りのことをお話しましょう。


戦前は、南町通りのことを多門通りと呼んでいました。多門とは第二師団長の多門二郎中将のことです。私は父親から聞いていたのですが、すごい司令官で負け知らずの伝説的な将軍だったそうです。満州の馬賊である馬占山部隊との激戦を制した「馬占山の戦い」をはじめ、満州各地で緻密で大胆な戦略により連戦連勝を重ねていました。とりわけ、多門中将を有名にした戦いが、満州事変です。この満州事変の中心的な部隊こそが、多門中将率いる仙台の第二師団だったのです。そして、昭和8年に第二師団は仙台に凱旋してきたのです。


河北新報社が募集し決定した「第二師団凱旋歌」を、各小学校の児童合唱団が歌い、凱旋パレードを祝ったのです。当時の写真を見たことがあるのですが、すごい熱気が伝わってくる、まるでワールドカップで優勝した代表チームを称えるような人だかりと歓迎ぶりなのです。仙台駅には急遽凱旋門が建てられ、多門中将を先頭に、第二師団の兵士たちが、ここをとおって、現在の南町を凱旋パレードしたのです。この日から、この幹線道路を「多門通り」と呼ばれるようになったそうです。


大橋を過ぎて、大手門跡の向かい側あたりの石垣のことも、私の記憶では「多門・・・」という風に多門の名前が冠せられていたように思います。


いずれにしても、満州での連戦連勝をお祝いして凱旋パレードしたときの、記念として「多門通り」という名称はつけられたのですが、戦後は「南町通り」に改称したのでした。しかし、あの熱狂を体験した人にとっては、「多門通り」という名称は、いまだに忘れられない名前なのかもしれません。案外あの老夫婦は当時、児童合唱団で「第二師団凱旋歌」を歌っていたのかもしれませんが。


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【2006/12/18 20:19】 | 日記 | Author:斎藤良一 E-mail:info@estate-consultant.jp
本多静六

きょうは、最近読了した本の紹介をすることにしよう。その本とは「本多静六」


本多静六−日本の森林を育てた人ー  そんな人まったく知りませんでしたよ。すごい偉人です。まず日本で最初の近代的公園である「日比谷公園」を創設・設計した人です。この公園の成功のあと、日本全国の約70箇所の公園設計をします。北は北海道の大沼公園から九州・霧島公園まで。さらには各地の「はげ山」を美林に変え、東京で将来水不足になるだろうと予測し、多摩川上流に水源林確保の成功にこぎつけます。今日なぜ大東京に水が確保され続けているのか。本多先生のおかげだったのです。


さらには、東北・北陸・北海道などで鉄道が雪害で大災害が頻発するや、鉄道防雪林を提唱し、各地に作るのです。例えば、水沢や青森の野辺地などでは、幅100m延長数キロにわたり、造林します。ユニークなのは成長すると、その木を適宜に伐採し、お金に換えるという一石二鳥の考え方です。この防雪林でおかげで雪害もかなりなくなるだけでなく、売却した丸太で、鉄道林の保守費用がまけなえたのです。今も野辺地駅には本多先生の偉業を称える碑があるそうです。さらにさらに、国立公園法の制定も本多先生の提唱で実現したのです。日本の美しい場所が国立公園や国定公園となって保存されているのも彼の執念の産物だったんです。


圧巻なのは、明治神宮の森の造営です。あの森は天然の自然林のように見えますが、人工林なのです。100年たつとパーフェクトな常緑広葉樹帯になるように計算して3期に分けて植樹し成功したのです。


どうしてこんなに国民のために尽くす仕事にまい進できたのでしょうか。本多先生は「人生の最大の幸福は職業の道楽化にある。・・・富も名誉も美衣美食も、職業道楽の愉快さには遠く及ばない。」 国民の幸福のために道楽的に働き尽くめの人生を送った本多静六は,まさしく真の道楽の達人だったのです。


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【2006/12/17 16:01】 | 日記 | Author:斎藤良一 E-mail:info@estate-consultant.jp
境地蔵

今日は、山形県の上山に測量に行ったとき聞いたお話しをしましょう。


現場のすぐそばの山のふもとのところに、地蔵様がいくつか並んでいた。これは何ですかと地権者さんに聞くと、「古い時代からずうーとあるから、詳しくはわからないけども、たぶん境地蔵ではないかと思う。」 境地蔵とは、その集落の端にあり、その集落を守る守り本尊のようなものだという。現代の我々の感覚では、理解しがたいだろうが、江戸時代やもっと古い時代は、国とかいう概念はなく、その集落が一つの国であり世界なのだ。


とりわけ山形の上山の山のほうでは、安全を守るのは、国でも藩でもなく、その集落の連帯感だけが頼りだったのだ。だから、その部落から遠くに出かける場合、その境地蔵さまにお祈りをして安全を祈願してから旅立って行ったのだ。帰ってきたら、また境地蔵さまに「無事に帰ってくることができました。お地蔵さま、ありがとうございました。」と報告とお祈りを捧げたのである。


現在では、市や町が単位であり、集落が絶対的な存在という認識は誰も持ち合わせてはいないだろう。市や町の境にしたって、別段何かお祈りする場所があるわけでもなく、それはとりもなおさずどこに行っても基本的には安全だという保障がなされているからだ。しかし、地図でも公図でも、なにゆえ「字(あざ)」が小単位なのかといえば、この字こそが本来の集落、あるいは部落といわれた小さな国であったことの名残なのだ。


交通が発達した現在においては、まったく意味をなさなくなった、「境地蔵さま」。だけど壊すでもなく、その村の人たちはお地蔵さまに時々お供え物をあげてお祈りしているのだという.。「災害が起こりませんように、孫が病気になりませんように、、娘のお産が無事でありますように、子供が受験に受かりますように・・・・・」これからもあらゆる人々の思いや祈りを「境地蔵さま」はすべて受け止めてくれるであろう。私は各地に残るこのような極めて日本的な祈りの風習がとても好きである。                                                          


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【2006/12/16 11:42】 | 日記 | Author:斎藤良一 E-mail:info@estate-consultant.jp
感動した第9番

今年もいくつかの映画を見ましたが、今日はその中でも印象深かったものを書いていきましょう。その映画は「バルトの楽園」です。ラストにベートーベンの第9番が合唱されるのですが、こんなに感動して聞いた「第9番」は初めてでした。


物語は、第一次世界大戦が終わり、負けたドイツ軍人の捕虜たちが、日本の徳島県の板東俘虜収容所に送られてきたところから始まります。通常、捕虜に対してはどこの国であっても厳しい対応をするものですが、この収容所所長松江は違っていました。捕虜たちを同じ人間として扱ったのです。捕虜たちが印刷物を作れるように印刷機械を貸し出した。またパンを作るもの、ビールを造るもの、チーズを作るもの、ソーセージを作る者たちにも、惜しみなく、機械を与え自由に作らせたのだ。さらに就寝時間も延長してあげたのだ。捕虜たちは感激し、松江所長を尊敬するようになっていた。あるとき、松江所長の耳には、美しい音楽が聞こえていた。ドイツ捕虜たちが合唱をしていたのだ。松江所長は、楽器も購入し彼らに与えた。いつのまにか捕虜たちは練習に練習を重ね、素晴らしいバンドを形成するまでになっていた。松江所長は地元民との交流会も催した。ドイツのソーセージなどの食べ物やビールは地元民たちに好評で、日本人との交流が深まっていた。戦犯捕虜に対する憎しみもいつの間にか消えかかっていた。そして素晴らしい音楽の音色は日本人の 心を深く捉えていた。日本人とドイツ人捕虜の間にはもはや垣根はなくなっていた。それは松江が常々言う「戦争が終われば、敵、味方等関係ない。同じ人間である。彼らは偉大なドイツの国民である。」


何ゆえ、松江はこんなにも人道的なのだろうか。その秘密こそが映画の中心的なテーマだったのである。実は松江は、会津藩出身者だったのだ。そして戊辰戦争に敗れたあとの回想シーンが流れる。戦争に敗れた側の悲惨極まりない地獄のような日々。松江はこのときの負けた側に対する非人道的なことを憎んでいたのである。だから、ドイツ捕虜たちに対しての寛大な措置だったのだ。まさしく会津武士道の極致を生き抜いた偉大な所長だったのだ。                      


ついに捕虜たちが解放される日が近づいてきた。ドイツ捕虜たちは、所長を始め地元の日本人たちへの感謝の印に、ベートーベンの第9交響曲を引くためにいっそう件名練習に明け暮れる。そして最後の日に演奏がなされる。素晴らしい演奏に会場は割れんばかりの拍手。そして、捕虜代表がお礼の言葉を述べたのだ。「わが友に・・・」といって声が詰まった。しかし、会場からは嵐のような拍手が沸き起こっていた。そしてラストシーンに、カラヤンの本物の第9が演奏でジ・エンド。こんなにも音楽っていいものだったのかと感動しっぱなしの映画でありました。


 


【2006/12/15 19:10】 | 日記 | Author:斎藤良一 E-mail:info@estate-consultant.jp
水屋

きょうは、仙北の米山町の友だちの家に行ったときの話しをしましょう。


米山町は大きな川である迫川沿いにある町で、昔から水害が多発していたところです。友だちの家は大きな家なのですが、宅地の一角が小高い丘になっているのです。そこのは鬱蒼とした木々があり、その木々に囲まれるようにして、古い蔵があるのです。


この蔵こそ、水屋(みずや)と呼んでいる建物です。すなわち、水害などの災害があっても、仮に自宅が水浸しになっても、大事なもの(米俵、金塊?)は大丈夫なように、小高いところに、丈夫な蔵を作っているというわけです。土蔵ですし、ましてや地盤も森に囲まれてますから、地震にも強いのです。


逆に言えば、北上川や迫川、江合川などの大河に沿っている町は古代から水害に悩まされてきたことを、物語っているのです。現場の境界立会いでよく聞かされることは、昭和23年のアイオン台風のときの被害です。とりわけ北上川、迫川はひどかったようです。


水屋とは先人たちが災害対策に考えた知恵の賜物です。現代的な土地有効利用の見方で言えば、水屋などはむしろ邪魔にされそうです。水屋を壊してアパートでも建てて、有効に利用した方がいいのではないかと思いがちです。しかし、災害はまさしく忘れたころにやってくるのです。


友達の話では、「水屋だけは守れ」、これが代々言い伝わっているそうです。先人たちが水害の恐ろしさを肌で感じ、子孫たちに残したもの、その一つが「水屋」といえそうです。


【2006/12/14 20:11】 | 日記 | Author:斎藤良一 E-mail:info@estate-consultant.jp
当百文

きょうは、細倉鉱山跡を見学したときの話しをしましょう。


来年の三月で石越町ー鶯沢(細倉鉱山)を結ぶ栗原電鉄が廃線になることで、これを惜しむ鉄道ファンで別れを惜しむ旅が人気を博しているようです。しかし、細倉鉱山の最盛期は現在を知る我々からすると驚くほどの繁盛だったようです。例えば、まだどこにもラジオが一般的ではなかったころに、細倉鉱山の住宅街では、ラジオのアンテナが林立していたことでも、そのすごさが伺えるのです。


細倉鉱山はかつては、金や銀、銅も産出していたようですが、全国レベルで産出量を誇っていたのは、鉛と亜鉛です。亜鉛は鉄の腐食を防ぐ重要なものであり、船の防錆剤に、あるいは屋根の表面を葺く材料として重要なものでした。


江戸時代においても細倉鉱山の重要性はぬきんでておりました。この地域一帯はこれらの豊富な資源によって栄えていたのです。それを示す証拠の一つに「当百文」がありました。「当百文」とは、この地域でだけ使われていた貨幣であり、主要産物である「鉛」と「亜鉛」の合金で作られていたのです。


細倉鉱山跡(マインパーク)の売店で現在も、この「当百文」が売られているのを見て、びっくりして思わず買ってしまいました。とても重く大きな貨幣であり、解説書では江戸時代の貨幣と同じ世大きさ、分量で作っているとのことでした。貨幣には穴が開いており、上下に、当と百の文字が刻まれていました。


当百とは「百文に相当する貨幣です」という意味であり、当時の貨幣価値は知りませんが、ある程度以上の価値があったものなのではないでしょうか。売店では1050円で売っていました。細倉鉱山は閉山したとはいえ、あまりにも大量の亜鉛と鉛の残りがまだあり、それらを観光資源としてこの江戸時代に流通した貨幣を作り、販売しているようです。


「当百文」、江戸時代にこの地域だけで流通した貨幣があったとはすごいものです。この地域は現在は単なる過疎地扱いですが、繁盛していた時代を映す鏡こそ、この貨幣といえるでしょう。


しかし、感動して「当百文」の貨幣を買ってきたのはいいのですが、結局、事務所の文鎮として使っているのが実情ではあるのですが。


【2006/12/13 22:43】 | 日記 | Author:斎藤良一 E-mail:info@estate-consultant.jp
実印の重み

きょうは、ある地権者さんのところに行き、境界確定図という重要な書類にはんこをもらいに行きました。そのときの話をしましょう。


このおじさんからはんこをもらったのですが、通常は認印でもらうんです。でも、今回は地積更正登記という本人確認が必要な案件でしたので、実印が必要なんです。最初、実印という重要なものをそう簡単には押せない。といわれたのですが、詳しく説明すると、納得されて実印を出してきてくれたのです。


おじさん「この実印はな。俺の兄貴の形見なんだ。兄貴は昭和20年にソ満国境で戦死したんだが、この実印はその前年の昭和19年に出征するときに俺さ、形見として置いて行ったものなんだ。」


立派な象牙の実印です。形見として置いていったということは、やはり戦争の状況からいっても、死を覚悟して代わりに家を継ぐであろう、弟に置いていったのでしょう。しかし、このおじさんもその後、海軍航空隊の予科練に所属し、まさしく特攻隊員として出征する直前だったようです。兄は第二師団歩兵第4連隊という陸軍の精鋭部隊にいたわけでしょうが、昭和19年、20年の状況といえば、想像しただけで恐ろしくなります。ほとんどの精鋭部隊が南方戦線に移動したためにわずかの部隊で、100万を越えるソ連の大部隊と戦い、そして散って行ったわけですから。


おじさんの話では、やはり場所が場所だけに、遺骨も帰ってこないという。兄の名残は、この実印だけになるのです。その後、さまざまな場面で重要な書類にこの実印を使ってきたことでしょう。しかし、そのたびにこのおじさんは兄のことを思い出したはずです。すなわち、この実印を押すことが、兄への供養になってきたのです。


ところがおじさんは、実印を私によこし、「斎藤さん、あんだ、押せわ。」と言うのです。


私は言われるままに、立派な実印を書類に押しました。実印とは普段においても重要なものであり、その意味はとても重いのです。しかし、きょうの、兄の形見だと言う実印は、とりわけ私には重く感じたのです。


【2006/12/12 22:28】 | 日記 | Author:斎藤良一 E-mail:info@estate-consultant.jp
回船問屋の末裔

初めて、ブログというものを書き込む仙台の良ちんといいます。よろしくです。


仕事は土地家屋調査士というものをしておりますが、ここでは映画や読書、あるいは日常の出来事などを書いていきます。


先日、石巻の知り合いの方と話していて、珍しい苗字だねと聞いたら、次のようなエピソードを話してくれました。その人いわく、「うちの先祖は伊勢で江戸に物資を運ぶ回船問屋をやっていたらしい。だから伊勢にはこの苗字が多いそうだ。その後江戸時代中期にどういうわけか、石巻に移ってきて、ここでやはり回船問屋をやって莫大な財を築いたらしいんだ。ところが、あるときその船が難破し、一気に没落したらしいんだ。それでその後はぱっとしないわけだけど、しかし、今でもお墓だけは馬鹿でかいもので、勢いの良かったころの名残がお墓にあるということなんだろうね。」


なるほど、すごい家だったわけだ。伊勢から石巻に引っ越してきたわけだ。江戸時代ってやっぱし保険制度のようなものはなかったんですかね。難破で没落かあ。


この知り合いのお父さんは戦前、満州で電力事業に従事していたらしいのですが、終戦後、シベリアに抑留され苦労されたようです。さらにおじいさんはといえば、戦前なんと、ゼロ戦の主力エンジンである「栄エンジン」や「誉エンジン」を作っていた中島飛行機の荻窪工場の工場長をしていたとのことです。当時の日誌などを見せてもらったのですが、驚きました。中島飛行機の荻窪工場といえば、主力工場であり、アメリカ軍が徹底的に叩いた場所です。その工場長ですからすごい責任のある地位なわけですよね。お父さんといい、おじさんといい、戦争を真正面で受け止めて、生き抜いてきたんですね。すごいと思いました。


回船問屋の末裔は、中島飛行機の工場長や満州での電力事業という偉大な功績を残し戦後を生きてきたのです。この知り合いも技術者なのですが、先祖たちの残した偉大な功績を受けつでいると感じたしだいです。


 


【2006/12/11 20:41】 | 日記 | Author:斎藤良一 E-mail:info@estate-consultant.jp