楽天の敗戦がとても残念でならないとはいえ、よくここまで戦ってきたなとも思う今日である。 しかし、楽天は野球人気の復活に貢献した。そういう意味では勝者なのではないか。 そんな野球人気が復活した中で、またしても東北からヒーローが生まれた。 同じ東北の岩手、花巻東高校の菊池投手である。高校生にして150kmを超える豪速球を投げる「とてつもない少年」なのである。 なんと、日本のプロ球団すべてから、そして大リーグの八つの球団、合わせて20球団からオファーがきているのである。松坂大輔を超えるとも言われる逸材らしく、ぜひともがんばって欲しいものである。 できたら楽天に入団して欲しいが。
もうひとり「とてつもない少年」が出現した。ゴルフの石川遼選手である。 わたしはゴルフはやらないし、あまり好きではないのだが、たまたま先週の日曜日の日本オープンを見た。 15番ホールだけから見たのだが、壮絶な三人の戦いだった。 一進一退の攻防が繰り広げられていたが、17番で手痛い失敗から石川が脱落するかに見えた。 カップまで8m位の距離が離れており、ここで入らなければ一人脱落するという絶望的な瞬間だ。 イチローの言葉を借りれば「心が折れてしまいそうな」状況である。 ところが石川の表情は、緊張しているようにも見えるが、何か毅然としているのである。 一瞬の静寂の後、石川はそのとても難しい状況のなかパッティング体勢に入るのである。そしてカップイン。 かろうじて首の皮一枚つながったのだ。そこから今度は逆襲に入る。 18番では逆に優勝を狙う位置まで進める。だが勝利の女神は訪れず、またしても三人の壮絶なマッチは続くのである。 最終的には小田選手の勝利になったが、私はあの17番での絶体絶命の状況におちいっても負けない彼の根性に脱帽した。まさしく「とてつもない少年」である。
次はスポーツではなくまさしく戦(いくさ)で示した「とてつもない少年」の話である。 私の同業者で友人のY君から聞いた話だが、あるとき仙台駅の東側の宅地を測量していた。その庭に碑があった。そこには「飯沼貞吉の碑」とあった。Y君はふと思った。「どこかで聞いたことがある名前だな?」 Y君は新撰組とか、白虎隊とか、戊辰戦争とか、とにかく会津大好き野郎であり時々会津を訪れているほどだ。 Y君はやっと思い出した。飯沼貞吉とは白虎隊のひとりで、飯盛山で20人の隊員たちと自刃に及んだが、たまたま死に至る直前に通りかかった人に助けられたのだ。 白虎隊とは16歳、17歳で編成された隊員たちで、国(会津藩)を守ろうと決意した立派な少年たちである。 しかし力及ばず最後は自刃にいたるのである。ところが飯沼貞吉が救出されたことにより、この白虎隊の国を思う至純の心が、全国に、そして全世界に伝わるのである。 戦前イタリアの首相だったムッソリーニは、この白虎隊の少年たちの国への忠義を尽くそうとした心に感動して記念碑を会津若松市へプレゼントしたほどだ。 生存した飯沼貞吉は、維新後、仙台に住み逓信省で働いていたのである。Y君が会ったのはその飯沼貞吉の御子孫だったというわけである。
最後に紹介する「とてつもない少年」は特攻隊である。
この写真は宮城県護国神社にある戦死者の写真である。その中には少年特攻隊員もいた。石巻、仙台、古川、三本木、気仙沼・・・・、膨大な数の少年特攻隊員がいたのだ。 彼らは親、兄弟、友人、郷土、ひいては国を守ろうと決死隊として志願し、国に殉じたのである。 恐怖心と戦い、至純の心を失わず戦ったのである。 昭和19年の今日、10月25日、関行男大尉以下5名の特攻隊第一撃が空母セントローに突っ込んだ。 現在我々日本人は、この日本にとって最も重大な日である10月25日のことを忘れ去っている。 ところが飛び立った基地があったフィリピンのマバラカットでは、毎年今日25日に慰霊祭が行われているのである。 肝心の日本人が少ないにもかかわらず、多くのフィリピン人が、特攻隊員たちの勇敢な精神を讃え慰霊してくれているのである。 フィリピンの小学生たちが、日の丸とフィリピンの旗を振りかざし、鼓笛隊が「君が代」や「海ゆかば」を演奏し特攻隊員を讃えている。 フィリピンの子供たちにとってヒーローである彼らは、まさしく「とてつもない少年」たちであると思う。 こういったとてつもない少年たちの話を聞くと、仕事など、とりわけ立会い等、小さなことで悩んでいる自分がとてつもなく小さな人間だなと思うのではありますが。
*特攻隊第一陣が出撃した10月25日に記す。
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