良ちんの『日常を旅するブログ』
土地家屋調査士 斎藤良一が、旅や映画、読書等日常をつれづれなるままに書き綴るブログ
将門の首塚

先日、所用で東京へ行ったおり、東京駅の近くの大手町にある「将門の首塚」へお参りしてきた。
今日はこの話を書くことにしよう。
平将門1 

以前から東京駅の近くにこの「将門の首塚」があることは知っていたが、名前も物騒だし特に興味がなかったから行ったことはなかった。
ところがあるとき、知り合いの志田さんから山形の実家の話を聞いてから、俄然興味を惹くようになった。
その実家とは、山形県西川町大井沢というところで、おじいちゃんはその町の神社で神主さんをしていたという。
さすがに現在はかなり高齢のため神主も譲ったそうだが、一方でそのおじいちゃんは、郷土史家でもあり、これまでもいくつかの本を出している。
その一つが、「大井沢の伝説と歴史を尋ねて」という本で、私もその本を借りて読むことになった。

驚いたことに、志田家とは、平安時代に起きた大規模な反乱である「将門の乱」の首謀者、平将門の子孫だという。
平将門は平安中期の関東の有力武将であり、当時支配していた藤原一族と戦争をして敗北した武将である。
その後、将門の首は京都に送られ、見せしめのため、しばらくさらし首にされたという。
しかし、その首にまつわる数々の不思議な伝説は、為政者側を心底震え上がらせた。
将門の首はいつまでたっても腐らず、生きているかのように目を見開いていたという。さらにはその首は関東を目指して空高く飛び去り、現在の「首塚」の位置まで飛んできたとされ、人々を畏怖させてきた。

「将門の乱」の敗北の後、一族のほとんどは処刑されたが、かろうじて将門の臣、木幡国豊にかくまわれた将国のみは逃れた。
その後わずかに残った一族は、志田と名を変え福島の相馬郡にたどり着いた。それでも敵の追手が伸びてきたことから、こんどは出羽の国(山形県)へ逃げた。
その場所は山形氏双月というところらしい。現在でもこの地に志田の姓は数十件あるのだという。
しかし一隊は二つに別れ、その一部がさらに出羽の国の奥地に逃げた。その地こそ、西川町大井沢である。
将門のひ孫に当たる「志田弾正」の碑が今も大井沢にあるらしいが、なぜこの地を大井沢と名づけたかというと、平将門の故郷、下総国の大井郷からきているのだ。

うわあ、すげえな。びっくりだ。ちょっとした話から、平安時代の平将門の子孫にぶち当たるんだからな。
それにしても平将門という武将は、単なる反逆者ということではなくて、領民に慕われた素晴らしい武将だったといわれている。
当時は藤原一族という公家集団による目に余る専横が幅を利かせ、領民は苦しみ泣いていたのである。そこへ将門はやむにやまれぬ気持ちから決起した。
その壮絶な戦いと悲しすぎる死が、領民たちに感動を与え「将門伝説」が成立したのではないか。
将門の乱は平定されたが、その後おごり高ぶり領民たちを苦しめた公家集団は没落し、将門の乱に刺激を受けた武士階級がのろしを挙げ始めるのである。

現在、日本は悪い公家集団によってめちゃくちゃな政治が行われている。子供手当てというトリックで政治を支配し、しかしその実態は大増税である。だから配偶者控除も廃止されるらしい。
それよりもなによりも、マニュフェストに書いていない恐るべき法案が検討されている。その名こそ「人権擁護法案」と「外国人参政権法案」である。これらが通ってしまうと、外国人が人権委員となって、我々日本人を裁けるのだ。恐るべき言論弾圧がまじかに迫っている。
さらにはアメリカとの同盟を排除して、東アジア共同体という名の、実質、中国の服属国になりますという共同体の一員を目指しているのだ。いやだね、そんなの。
日本は治水、治山が非常に重要だというのに、極力予算をカットするという。洪水対策しないでどうするんだ。
今年の年末かなり倒産する企業が増えるだろうね。悪い公家集団のおかげで。
「出でよ、平将門」  悪い公家集団をやっつける武力を伴った武将の出現を待つ気分だね。
それを確実に実感したのが、大手町にある「将門の首塚」に手を合わせてからだね。
平将門2 
平将門3 
それにしても、山形県西川町大井沢で神主さんをしていたおじいちゃんの話をじかに聞いてみたいね。
志田弾正の話を、そして平将門の話を。大井沢の伝説も。
ちなみにそのおじいちゃんの名前は、志田章一氏という。


【2009/11/02 20:54】 | 日記 | Author:斎藤良一 E-mail:info@estate-consultant.jp
とてつもない少年

楽天の敗戦がとても残念でならないとはいえ、よくここまで戦ってきたなとも思う今日である。
しかし、楽天は野球人気の復活に貢献した。そういう意味では勝者なのではないか。
そんな野球人気が復活した中で、またしても東北からヒーローが生まれた。
同じ東北の岩手、花巻東高校の菊池投手である。高校生にして150kmを超える豪速球を投げる「とてつもない少年」なのである。
なんと、日本のプロ球団すべてから、そして大リーグの八つの球団、合わせて20球団からオファーがきているのである。松坂大輔を超えるとも言われる逸材らしく、ぜひともがんばって欲しいものである。
できたら楽天に入団して欲しいが。

もうひとり「とてつもない少年」が出現した。ゴルフの石川遼選手である。
わたしはゴルフはやらないし、あまり好きではないのだが、たまたま先週の日曜日の日本オープンを見た。
15番ホールだけから見たのだが、壮絶な三人の戦いだった。
一進一退の攻防が繰り広げられていたが、17番で手痛い失敗から石川が脱落するかに見えた。
カップまで8m位の距離が離れており、ここで入らなければ一人脱落するという絶望的な瞬間だ。
イチローの言葉を借りれば「心が折れてしまいそうな」状況である。
ところが石川の表情は、緊張しているようにも見えるが、何か毅然としているのである。
一瞬の静寂の後、石川はそのとても難しい状況のなかパッティング体勢に入るのである。そしてカップイン。
かろうじて首の皮一枚つながったのだ。そこから今度は逆襲に入る。
18番では逆に優勝を狙う位置まで進める。だが勝利の女神は訪れず、またしても三人の壮絶なマッチは続くのである。
最終的には小田選手の勝利になったが、私はあの17番での絶体絶命の状況におちいっても負けない彼の根性に脱帽した。まさしく「とてつもない少年」である。

次はスポーツではなくまさしく戦(いくさ)で示した「とてつもない少年」の話である。
私の同業者で友人のY君から聞いた話だが、あるとき仙台駅の東側の宅地を測量していた。その庭に碑があった。そこには「飯沼貞吉の碑」とあった。Y君はふと思った。「どこかで聞いたことがある名前だな?」
Y君は新撰組とか、白虎隊とか、戊辰戦争とか、とにかく会津大好き野郎であり時々会津を訪れているほどだ。
Y君はやっと思い出した。飯沼貞吉とは白虎隊のひとりで、飯盛山で20人の隊員たちと自刃に及んだが、たまたま死に至る直前に通りかかった人に助けられたのだ。
白虎隊とは16歳、17歳で編成された隊員たちで、国(会津藩)を守ろうと決意した立派な少年たちである。
しかし力及ばず最後は自刃にいたるのである。ところが飯沼貞吉が救出されたことにより、この白虎隊の国を思う至純の心が、全国に、そして全世界に伝わるのである。
戦前イタリアの首相だったムッソリーニは、この白虎隊の少年たちの国への忠義を尽くそうとした心に感動して記念碑を会津若松市へプレゼントしたほどだ。
生存した飯沼貞吉は、維新後、仙台に住み逓信省で働いていたのである。Y君が会ったのはその飯沼貞吉の御子孫だったというわけである。

最後に紹介する「とてつもない少年」は特攻隊である。
特攻隊3 

この写真は宮城県護国神社にある戦死者の写真である。その中には少年特攻隊員もいた。石巻、仙台、古川、三本木、気仙沼・・・・、膨大な数の少年特攻隊員がいたのだ。
彼らは親、兄弟、友人、郷土、ひいては国を守ろうと決死隊として志願し、国に殉じたのである。
恐怖心と戦い、至純の心を失わず戦ったのである。
昭和19年の今日、10月25日、関行男大尉以下5名の特攻隊第一撃が空母セントローに突っ込んだ。
現在我々日本人は、この日本にとって最も重大な日である10月25日のことを忘れ去っている。
ところが飛び立った基地があったフィリピンのマバラカットでは、毎年今日25日に慰霊祭が行われているのである。
肝心の日本人が少ないにもかかわらず、多くのフィリピン人が、特攻隊員たちの勇敢な精神を讃え慰霊してくれているのである。
フィリピンの小学生たちが、日の丸とフィリピンの旗を振りかざし、鼓笛隊が「君が代」や「海ゆかば」を演奏し特攻隊員を讃えている。
フィリピンの子供たちにとってヒーローである彼らは、まさしく「とてつもない少年」たちであると思う。
こういったとてつもない少年たちの話を聞くと、仕事など、とりわけ立会い等、小さなことで悩んでいる自分がとてつもなく小さな人間だなと思うのではありますが。

*特攻隊第一陣が出撃した10月25日に記す。


【2009/10/25 11:52】 | 日記 | Author:斎藤良一 E-mail:info@estate-consultant.jp
富沢にて

富沢1

現在、富沢の確定測量、分筆などの業務を行っているが、だからなのかどうかよくわからないけど、先日河北新報に載った富沢に関するコラムにとても興味を持った。
富沢地区で旧石器時代の遺跡が発掘され、現在も発掘調査されていることはなんとなく知ってはいたのだが、
今現実にそういったところの近くで測量をしているので余計興味を持ったのだ。

そのコラムのなかに、富沢地区で見つかった旧石器時代の人たちがキャンプファイアーをしていた遺跡が「地底の森ミュージアム」で見学できると書いてあったので早速行ってみる事にした。

なんと2万年前の旧石器人たちが、ここ富沢で鹿やうさぎ、熊、いのしし、鳥、などを捕まえ火をたいて肉料理を食べていたという。さらには木の実や植物を取り生活していたという。
旧石器人は、シカの皮や植物を使い衣服にしていたのではないかと説明していた。
一階には、二万年前の氷河期の森がそのままそっくり化石になっている実物が展示されていた。
さらには、旧石器人たちが獲物を捕まえるための矢じりなどの「石器」がいくつも見つかっており展示されていた。
係りの人に聞いてびっくりしたのは、旧石器時代の海面は現在よりも約100m下がっていたという。従って松島はもちろん二万年前は陸であり海岸線はそのはるか東側だったという。
ここ富沢は若干の丘陵地でありあちこちに沼があったと想像されている。そして旧石器時代は後期氷河期ゆえ温度も平均で現在より8度低いらしいが、意外にも雪の量は少なかったそうだ。
木々は高木は少なく、グイマツやハンノキ、トウヒ、モミの木の少し低木の針葉樹、広葉樹が繁茂していたと想像しているようだ。
上の写真は「地底の森ミュージアム」の庭だが、2万年前の富沢を想像して植え造った庭だという。
一番印象深かったのは、矢じりなどを作る石のことだ。もちろん硬い石なのだが種類は「けつ岩」と「黒曜石」
ところがどちらもここ富沢では取れないものらしい。なんと明らかになったのは、これらの石の産地は、山形の最上川上流で取れたものだとのことだ。
旧石器時代はまだ定住していないころだし、たぶん奥羽山脈を縦横に歩き、食べ物をとりながらキャンプファイアーをして移動しながら暮らしていたのだろう。
いやあ、旧石器人、結構かっこいいなあ。

しかし仙台にはもう一つすごい遺跡があるのです。それが「山田上ノ台遺跡」。
富沢3 



ここはもちろん旧石器時代の遺跡も出てきたのですが、むしろメインは縄文時代の遺跡です。縄文になると人々は定住しました。そして土器等のさまざまな道具を作りました。
さらには上記写真のようなたて穴式住居も作りました。上記写真はその復元したものであり、結構大きくて中も見学できます。この建物は木造なのですが、主な材料は栗の木です。屋根は土で葺いています
出土した土器群はすごいの一言です。しかもかなり薄く焼いており高度な技術が見られます。
さらに「勾玉」などを作りアクセサリーとしてあるいは呪術など宗教的なものにも使われていたらしい。
さらにさらに最新の研究成果としては、この4000年前の縄文時代には、日本独自の言葉も編み出されていた可能性もあるという。(オシテ文字の原型か?)
日本ってマジ偉いな。

うーむ、富沢といいすぐ隣の山田上ノ台といい、めちゃくちゃすごいところらしい。旧石器時代から縄文までの人々の暮らしが次々と解明されているのだからな。
そういう意味では遺跡発掘チームはさらにがんばって欲しい。
ただ現在うちの事務所で測量しているところも、「埋蔵文化財地域」であり、これから開発を行うまえに、いろいろと調査をするんだよね。
なんかコメントしづらい微妙な気持ち。

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【2009/10/17 09:36】 | 日記 | Author:斎藤良一 E-mail:info@estate-consultant.jp
中秋の名月の夜に

漆沢1

先週の土曜日の夜、すなわち中秋の名月の夜 に、ある地権者さんの家に行った。
玄関を開けると、廊下の向こう側が坪庭になっており、そのガラスの前に花瓶が置かれていた。
その花瓶にはススキが何本か添えられ、その右側には、おだんごが置かれていた。
さらにその右側には20cm四方ぐらいの画用紙のようなものがあり、そこにはお月見の絵がかかれてあった。

仕事の話が終わり、帰り際、また先ほどのススキや団子が目に入ったので、地権者さんに感想を言った。
「この坪庭前のススキなど置いててとても素敵ですね。」というと、地権者さんは「ああ、そうですか。お褒めいただきうれしいですね。時々こうやって花などを入れ替えているんですよ。今日は中秋の名月ですからね。」と
解説してくれた。今度来るときはまた違った花を眺めることが出来ると思うと、少しうれしくなった。

次の日曜日の朝に驚くべきニュース速報が流れた。昨夜、中川昭一氏が死去されたとの速報であった。
しかしマスコミは相変わらずであった。偉大な政治家中川氏の死に際し、何度も何度も繰り返しあの映像を流していたのだ。そう、「もうろう記者会見」の映像を。
これまでも保守系の政治家に対しては、その功績は伝えずに、ただひたすらネガティブな情報のみを伝え彼らの政治生命を奪おうとしてきていた。とりわけ中川氏は反中国を鮮明に打ち出していたため、すでに中国のコントロール下にある日本のマスメディアにとっては潰しておきたい政治家であったのだろう。

中川氏の功績をまとめると、・東シナ海で帝国石油に試掘許可を与えた(中国激怒する。)
・河野談話は間違いだったと明言(もちろん中国激怒する。) ・中国の軍事力増強を批判(中国激怒する。)
・ダライラマを支持(もちろん中国激怒。)  ・靖国神社への参拝を欠かさない(中国激怒する。)
中川氏の政治スタンスは、「常に日本の国益」を重視し、愛国心を貫き、全く持って私心がないことだ。
自分のことより、日本を守ることに全身全霊を傾けた方なのだ。まさしく日本のハンニバルである。

こういった極めて政治生命が危うい状況下でワイン事件は起こった。だがこの事件こそ不可解だと指摘する識者は多い。わずか35分の間にたった2杯のワインを飲んだだけで、酒豪で鳴らした中川氏があの酩酊状態になるとは。しかも記者会見の開かれる直前までは、全く普通であったのに、ある時間帯になったら突然のように
ろれつが回らなくなり、あの酩酊状態になったという。
何かをワインに入れられたのかどうかはいまのところ、神様にしかわからないのだ。

政治生命を失い、茫然自失の状態でこの一月を過ごしてきた中川氏の孤独な思いを考えたとき、やるせない気持ちになった。
亡くなる日、すなわち中秋の名月の夜、彼はどんな思いで月をながめたのであろうか。
私の大好きな西行の歌に託せば、「嘆けとて 月やは 物を 思はする かこち顔なる わが涙かな」

あるいは戊辰戦争当時、公武合体派として活躍したが、ある濡れ衣を着せられ処刑された長井雅楽の歌であろうか。
「濡れ衣の かかる憂き身は 数ならで ただ 思わるる 国の行く末」

中川先生の素晴らしい政治的功績に思いを馳せ、そして讃えよう。それこそが最大の供養になると思うのだ。

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【2009/10/09 22:06】 | 日記 | Author:斎藤良一 E-mail:info@estate-consultant.jp
因島(いんのしま)残照
先日お会いした地権者さんは太白区に住む方でした。その家に入ると不思議な文様の家紋が額縁にかけられていました。
打ち合わせが終わり、先ほどから気になっていた、例の「家紋」の事を聞いてみました。

すると、その家のおばあさんがいうには、「うちの家紋は、かぶなんですよ。そう、野菜のかぶ。言いつたえによると、S家のご先祖は、広島県の尾道市の瀬戸内海に浮かぶ因島にあったそうです。因島といえば村上水軍の拠点のひとつです。そこには村上水軍の拠点としての城が数多くあったそうです。
S家はその城の一つの頭領だったといわれています。ところが織田信長との戦に負けてしまい、敗残兵として全国を流浪することになったのです。
S家の一部が宮城県にも流れてきて今日に至っているようです。大崎市、一迫町、登米等にも一派がいることがわかっています。
こういうわけで、S家は村上水軍として瀬戸内海で活躍したようです。なぜ、かぶなのか?ですが、敵との戦いにおいて大事なことは、水と食料です。とりわけ因島のような島では、あまり野菜が取れないため、いつ戦がおきても長期戦を戦い抜けるように、野菜を保存食として保存する方法がとられていました。
そこで重宝なのが、大根やかぶです。とりわけかぶの漬物は貴重な食料として重宝がられ、なぜかこのかぶが
うちの家紋になったと聞いています。」

ええ?戦に大事な食料としての「かぶ」が家紋だったとは、とても驚きました。

何年か前、私は尾道に観光で行ったことがあります。残念なことはその当時村上水軍のことにあまり興味がなく
因島にも行っていない、そのことが悔やまれるのです。
当時、私は尾道市の観光桟橋から、一番近くにある島にフェリーで渡っただけでした。
しかもその島に着いてめぼしい観光スポットが無いと判断するや、缶コーヒーを飲んだだけで、すぐに帰りのフェリーで帰ってきたのです。(もったいねえ。)

息子さんが村上水軍のことや、亡くなった父が一生懸命自分の家のルーツを調べていたことを語り始めました。
その膨大な資料は今もその当時のまま二階にあるそうです。
さらにそのルーツとなっている因島に、生前の父と一緒に家族旅行をしたことも話してくれました。
「でも因島ってやくざの島っても言うじゃないですか?」
するとおばあさんは、「それはそうだげど、それだけじゃないがらね。女優の東ちずるさんも因島出身だよ。
因島はいい島でもあるんだがらね。」
と、おばあさんはやくざの島って言われることに反論し、あくまでS家のルーツである因島をかばおうとする。
そのおばあさんの言い方がとてもかわいかった。

今度広島のほうに行ったおりには、ぜひ因島にも行って城跡を探索してみたいものだと思った。S家の先祖が頭領をやっていた城跡(B城)も見てみようと思った。

もし夏の晴れた日にその城跡から瀬戸内海を眺めたならばどういった光景がみえるだろうか?
たぶん、夏の残照に照らされた美しい瀬戸内海が眺められるだろう。それは我々が缶コーヒーを飲みながらフェリーから見えた光景だし、あるいは、S家のご先祖、すなわち村上水軍の一派が戦に破れ敗残兵として、この島を撤退するときに見た残酷なまでの美しい光景が脳裏に浮かぶからだ。

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【2009/09/30 20:47】 | 日記 | Author:斎藤良一 E-mail:info@estate-consultant.jp